7月26日「破局からの救い」

 教会暦は、聖霊様と共に過ごす時期を示しています。イエス様と直接に交流できなくても、見えないところで聖霊様が働いて下さるので安心です。という結論になります。主題が「破局からの救い」ということで、旧約聖書は南王国ユダの国家存亡の危機について、福音書は供食の後日談について(大勢がイエス様を追いかけて食べ物を求めるという破局)、使徒言行録はパウロの難破についてが選ばれています。 改めて、パウロの難破のお話を読んでみると、至って沈着冷静に判断していることが理解できます。 今日今現在も、聖霊様のお守りのうちを私たちは過ごしています。ただ、荒唐無稽な奇跡物語や神様が直接この世界に介入して物理法則を崩していくことに、期待を寄せることは決して賢明とは思えません。もちろん神様は全知全能ですので、何でもできます。しかし、もし神様が私たちのお願いに、二つ返事で答えて下さるとしたら、それは、神様ではなくなってしまいます。人間を甘やかし、堕落させる、悪魔的な行為です。神様が主で私たちが僕です。私たちは神様にお仕えするのです。ですから、本日読まれたパウロさんのように、神様に守られていることを信じて、客観的に情勢を分析して、合理的に推論を重ね、人間としての最善を選択した後に、神様を信じる姿に親近感を憶えます。

7月19日「復活の希望」

本日の主題は「復活の希望」である。聖書には復活またはよみがえりの記述が多数存在する。この世の常識からすると「死者はよみがえらない」ものである。聖書も同じ立場をとっている。ただ、人には決してできないことが、天地の造り主なる神様だからできるという立場をとっているために、「よみがえり」も神様の力が発動した証拠とされる。 さて、現代でもこの世での復活を信じる人たちがいる。この場合、埋葬は土葬となる。中国の故事にも「死者に鞭を打つ」という表現があるが、キリスト教圏でも復活を妨げる刑罰として実在していた。ただ、火葬を前提とする日本とは感覚が異なってくるので、配慮をしながら「復活の希望」について考えたい。 死後の世界観については、民族・文化その他の習慣等様々である。大きく分けると、復活の希望とは人が死んでも魂は永遠に残ると考えている人たちにとって重要な話となる。人が死ぬとすべてが無に帰すと考えている人たちには、意味が無いのだろう。というか、自分の死後はすべてが無に帰すと知りながら、安定して最後を迎えるのは、よほどの人格者に限られるだろう。そして、残った魂に肉体が現実的にによみがえるか否かを問えば、実証できない分議論ばかりが白熱し、使徒言行録のように騒ぎが大きくなる。 復活の希望とは、科学的にどうとかいう事柄ではない。自分の人生に意味のあることを知り、自分の魂に行き場所があることを知ることだと思う。そして、なんとなく安心して過ごすのが最良の道だと思う。  

7月12日「生命の回復」

 聖書にはかなり頻繁に死者をよみがえらせる奇跡の物語が登場する。人間の世界では「死者はよみがえらない」が通説だから、死者のよみがえりは、特別な力が働いた事をしめす。全知全能の神が働いたことの証明となる。 よみがえりはともかく、古代社会では宗教的な団体にとって、病を癒やすことは社会から期待されることでもある。近代医学の無い時代においては大切なことだったのだろう。本日のテキストから使徒言行録の癒やしの業の用いられ方に着目したい。テキストを見ると、様々な人たちが登場しており、そこから当時の教会の構造が見える。この中で、ペトロは別格で、病を癒やすという特別な能力が期待されているのは彼一人だ。 弟子たちが教会の中心を担う働き人、聖なるものたちは指導者層、やもめたちは教会に保護される人たち、職人とは自営業の親方クラスで、ペトロの接待を担当している、今日の有力信徒だろうか。 つまり当時の教会は、聖なるものたちが中枢指導的地位、弟子たちが働き人としてやもめたちの世話をして、その働きに対して職人クラスが有力信徒として、経済面までも支えているようだ。癒やしの業が許されるのは、聖なるもの達よりも更に地位の高い使徒(ペトロ)にかぎられている。そのことから、決して無節操なまがい物を売りにしていないことがうかがわれる。 教会は弱者保護の福祉的な働きを中心とした宣教の業を広げる中で、癒やしの業が慎重に用いられているようだ。つまり、いかがわしい魔法使いの集団ではなく、誠意のある福祉法人だったようだ。  生命のやり取りは神さまの領分として、人としての領分を守り、隣人愛を示し続ける教会の姿を覚えたい。

7月5日「異邦人の救い」

 一般に「異邦人」と言えば、邦(クニ)が異なる人のことで、よそ者のような意味になる。ところが、新約聖書の中で異邦人とは、ユダヤ人以外を指す。もちろん、ユダヤ人は少数派なので、(ユダヤ人にとっての)異邦人=万国民という等式が成立する。「異邦人」には、他所から来た少数派というイメージがあり、キリスト者が使う定義と子となるために常々、違和感を覚えていた。ところがエルサレムには「万国民の教会」があり、これを初めて見た時に「異邦人の救い」が納得できた。その時の私の心の声をあえて記すと「大風呂敷を広げていたのか」という思いであった。 旧約聖書を見てみると、ヤハウエも最初はちっぽけな地方の土地神のようだ。御神輿の上に収まり部族間の戦いの前線で敵と戦っていた。そのうちにイスラエルの民が、古代帝国に飲み込まれ、ヤハウエが小物だとバカにされるようになった。そこで悔し紛れにヤハウエは「天地の造り主」であり、神々の中で一番偉いのだと、言い切ってしまった(ヨナ書)。このあたりから、取扱注意な存在になったようだ。そして、全知全能となって以来、万国民の神に落ち着いたと思われる。 まあ、天地のすべてを創造された方だから、ユダヤ人専属の神に落ち着くはずもありません。ヨナ書では、北イスラエル王国を滅ぼしたアッシリアを救ってしまいます。福音書では純粋なユダヤ人であるイエスさまが、本来、一緒に過ごせるはずのないサマリアの女と仲良くなってしまいました。使徒書では、ユダヤ人への逆差別もあります。このような目線で見ると、瓢箪から駒とはよく言ったものだとか、聖書そのものにとても人間らしい書物だという思いが湧いてきます。 でも、こうして、万国民を救う神さまとなってくださったおかげで、私たちも救い入れられたわけです。人間を民族ごとに好き嫌いしない神さまなので、私たちも世界平和を追い求めてしまうのです。悪いことでは無いと思います。

6月28日「天のエルサレム」

主題を考える。「天の」というところから、「地上にはない」という意味が汲み取れる。エルサレムは、イスラエルの首都である。バビロニアに占領され、ペルシャの時代に再興。ヘロデ大王の時代に最大規模を誇り、ユダヤ戦争で破壊され今日に至る。栄華を誇った期間はほんの少ししかない。しかも初代クリスチャンの時代には全くない。ということから、この世にはない夢のような世界を「天のエルサレム」に見出していることが解る。 初代のクリスチャンはとても厳しい時代を過ごしている。もっとも、今まで言われていた「厳しい迫害の時代を命がけで信仰を守った」というのは確かに事実を含むが、細菌の研究によると、平和な時代が多かったようだ。 それでも、キリスト教そのものが新興宗教であり、ユダヤ教からの支えも、ローマ当局の庇護もなかった。ユダヤ教からの断絶であり、ローマ市民権非保有者が対象の宣教である。苦労が忍べる。そのような中200年と少しでローマ帝国を席巻するほどに広がったのだ。それを、聖霊さまのお働きの成果と受けとめた。当事者である初代のクリスチャンたちは、天のエルサレムを夢見て、これを地上に実現すべく働いたことだろう。 ところで、私たちは近代という時代を過ごしている。近代とは、客観的に物事を捉えて、合理的に考える世代である。確かに、コロナウイルスは客観的に捉えなければ、前近代のように「~の祟り」のような捉え方をしたら、被害が大きくなるばかりだ。そこの所はきちんと理解しながら、それでも客観性や合理性を突き抜ける何かを求めるのも人間の営みである。聖霊さまの導きを信じて天のエルサレムをめざすことはとても大切なことだと思う。

6月21日「信仰の道」

 明文法で外部から人を規制するのが「律法」です。これに比して人の内面からわき出てくる思いを自由に表出するのが「信仰」であり、そのエネルギー源が「聖霊さま」です。ですからこれからは、律法から束縛を受けるユダヤ教を離れて、聖霊さまの力を得て、自由な信仰にしたがいましょう。というのが、パウロの主張であり、概ねキリスト教も同意している事柄です。 本日の主題だけを考えれば以上にまとまってしまいます。1世紀後半からキリスト教はユダヤ教から追い出されて自立した経緯があり、ユダヤ教に対し厳しい視点で書かれています。これに加えて、ヨハネ文書(福音書、手紙、黙示録)はローマ帝国からの迫害も加味されていますので、慎重に読み解かなければなりません。まどろこしい表現も多く、たぶんローマ当局を直接批判できなかったからだといわれています。ここでも「偽り者」と表現されます。 このような複雑な背景があるために、文意がそのまま真実とはとりにくい印象がある。今回は特に、「バプテスマのヨハネ」がイエスに教団を譲る場面が描かれている。それほどスムーズに移行できるとはとても思えない。きっと事情があったことだろう。 当時のクリスチャンは、ユダヤ教に帰れない、キリスト教として迫害を受ける、歴史も指導者もなく聖霊さまの導きで生き残ってきたのが実体だろう。きっと聖霊さまの導きの元に、信仰の示すままに歩んできたのだろう。確かに力強いものだ。

6月14日「神の民の誕生」

クリスチャンにとって、キリスト教の誕生こそが「神の民の誕生」に思える。しかし、古代のユダヤ教を母体としその一部が変化を遂げたのだ。ここでは、古代ユダヤ教から引き継いだことがらと変化した事柄についてはなしたい。 引き継いだものは、旧約聖書である。旧約聖書に描かれる、神の御旨そのものは変わらずに維持されていることです。律法の一点一画も滅びない、とされる。 変化したこととしては、律法や十戒に代表される「~してはならない」という禁止事項が多いのに対し、新しくは「隣人を愛しなさい」など愛の宗教に代表される積極的な行為が求められるところにある。初代教会は弱者保護を謳いさまざまな活動をしていた。 もっとも、ユダヤ教もまた貧者の救済活動はしていたが、もちろん同胞(ユダヤ人)に限られる。クリスチャンたちは、ローマ帝国内で国籍・民族を問わず弱者救済の活動したのでキリスト教が広まったのだろう。 もう一つ考えられるのは、初期のクリスチャンにとって、愛のわざに励む事は楽しいことだったのだろうと思う。 宗教的指導者からいろいろと指示されるのではなく、自分の内からわき上がる力に支えられて楽しげに活き活きと他者のために働いたのだろう。そしてそれは、初期のキリスト教の大きな魅力だったのだろうと思う。その活き活きとした活力を、聖霊さまのお働きとお導きと、認識したと想像する。  聖霊さまのお働きを受け、私たちも元気に教会生活を守りましょう。

6月7日 真理の霊 三位一体主日

 本日は三位一体主日です。私たちクリスチャンは、自らの信仰を明確な言葉で述べる習慣があります。讃美歌21には、代表的な信仰告白として「使徒信条」と「ニカイア信条」が掲載されています。使徒信条は紀元90年頃、ニカイア信条が325年に作られました。この頃に父なる神、子なるキリスト、聖霊さまの間で誰(どれ)が一番偉いのかという議論がありました。これがもめにもめて教会分裂に至り、ニカイア信条で「三位一体」(どれも一緒だから仲良くしようね)となりました。 この時の議論が難解なのは、誰も神さまに直接聞いたことがないと言うことです。(実証なし)にもかかわらず神さまの様子を決めたことでしょう。納得してしまう人もいるのですが、自分なりには、受け入れらずに悩みました。近代的な意味での実証にそぐわない、しかし有意義な内容を持つ議論だと最近になって思えるようになりました。今は、蒸し返さないで、素直に受け入れることをお勧めしています。 と、いうことで、神さまやキリスト様と同じ存在である聖霊さまが、私たちと共にいてくださいます。神さまとイエスさまに純粋に従うとどうしても摩擦が発生します。時折、聖霊さまが導いてくださったり、手助けしてくださるので、私たちは気持ちを持ち続けることができるのです。 極端なことをいいたがる人もいます。この世界は、偶然の積み重ねだけで成り立っている。また、一部の人たちは、隅から隅まで神さまの御旨で成り立つと言います。私たちは神さまから許された自由な意思で判断しています。間違うこと(罪を犯す)こともあります。見えない聖霊さまのお働きで道をただし(悔い改めて)いるのです。

5月31日 聖霊の賜物

 新型コロナウイルスに対応する医療従事者に感謝と敬意を伝えようと、航空自衛隊のブルーインパルスが5月29日、東京の都心上空で編隊飛行を行った。全国ニュースで取り上げられ概ね好意的に報じられた。 特効薬もワクチンも無い状態で、感染のリスクを抱えながら必死に働く医療従事者に対して、この国のために働きながらなかなか「感謝と敬意」を表してもらえない自衛隊が表意したこと、その行為が正しく評価されたことをとても嬉しく思います。 同時にFukushima50の皆さんのことを思い出します。本来なら「感謝と敬意」を受けるべきなのに、誤報により侮辱まで受けたとても気の毒な人たちです。福島第一原発は地震と津波でとても危険な状況にありました。命の危険を理由に辞表を提出して逃げ出しても誰も咎められない状況でした。(この点を正しく理解している人がいない!!)「全電源喪失の中でメルトダウンした原発の暴走を止める」という命がけの仕事を業務として命じることはできない。だから東電は撤退を検討し、これに激怒した菅直人は「会社をつぶす」といって恫喝していました。ナンセンスな議論が頭上で飛び交う中で、専門家の使命として原発をコントロールした人たちです。 彼らが戦った危機の大きさすら正確には語られずに、原因である東電の社員であることから、感謝も敬意も受けられなかった人たちです。 福島でも最前線で働いた自衛隊の皆さんが、今回「感謝と敬意」を表す側に立たれたことを、正しく受け止めたいと思います。 聖霊さまが使徒たちに働きかけて大きな働きをなしました。その神さまに「感謝と敬意」を表しましょう。

5月24日 キリストの昇天

キリスト教の暦は、几帳面である。クリスマスは降誕祭と呼び、天にいたキリストが地上に降りてきたことをお祝いしている。十字架で死んだイエスは、一旦陰府に下り、三日目に陰府帰りを果たす。再び、天に帰り、今度は聖霊という形になって私たちと共にいてくださるようになる。 復活後のキリストが天に帰るのは自ら(神)の意思であるので自分から天に昇っていくのだ。 この几帳面さというものはとても大切なことだと思う。理論的な整合性は必要だ。いわゆる迷信とは一線を画するところだと思う。当時の、世界観や科学的な理解力の中で、精一杯真摯に向き合っていたことが感じられる。 わかっていることとわかっていないこと、仮説は仮説として理論が組み立てられている。この几帳面さから近代自然科学が生まれてきたと納得できるのだ。 こうした、信頼感の上に、聖霊降臨の出来事を考える必要があるだろう。「なにか」はあったのだろうと思われる。そして教会が大きくなったのも事実だ。 この世界が、客観性と合理性だけですべてが説明できたら、それは面白くない。物理学ではマックスエルの悪魔と呼び習わしている。生きて働く神さまが何かしらの働きかけをしている。そこが楽しい。 ということで、天に昇られたキリストが次週の聖霊降臨日にはまた下ってきてくださるので、楽しみに過ごしましょう。