10月25日「創造」~暦が新しくなりました~

 ちょうど、米大統領選挙の年となった。四年に一度、米国の宗教事情、特に福音主義の人たちが報道される。しかも、「進化論を受け入れずに創造論を唱える変わった人たち」という風に紹介される。 進化論は、自然科学の一仮説に過ぎない。一方「創造」とは、人文科学の一大テーマである。忘れられがちながら、特に注意するべきは、自然科学には「測定できないものは無いものと見なす」という約束事があるということだ。自然科学の世界観で、この世のすべてを説明できたなら、神はいらなくなる。(もともとが「神は測定できない」と定義されている)。故に、神の存在を否定したい唯物論者達が、自然科学の一仮説を用いて、自分たちに都合の良い世界観を押し広げようとしている。と個人的には思っている。  一方、自然科学は人間の限界へと挑戦続けるものである。探求進み、結果が積み重ねられるほどに、あまりに精緻な世界が展開している。感動した自然科学者達は「この世界を創り出したのは大きな意思に違いないと確信を深めている。これを、人文科学の立場から表現すると、「そこには完璧な秩序が存在する」。つまり、神は創られた世界をほったらかしにはしていない。秩序を維持することで創造の御業は継続しているのだ。 更に敷衍すると、ニュートンがたった一つの方程式で全宇宙の森羅万象を説明しようとした時点で、神を追い求めている。でもって、その時の方程式で答えきれなくなると、次なる方程式が提示され、営みは何度も繰り返されている。つまり、物理学者達は神を信じ追いかけているのだ。 まあ、正しく議論してほしいものだ。幼児が園長に「人間は猿から進化したのだ」と言ってくるが「君は昔お猿さんだったのかい」で議論が終わってしまう。人間には神の霊が与えられており、ちょっとちがうのです。ちょっとがどの程度かは立場の違いで表現が異なります。

10月18日「天国に市民権を持つもの」

 ここでいう天国とは、不条理に満ちた現世(今現在)に対して、理想が実現するであろう将来(現在の延長線上)を意味している。来世でも無ければ、地獄の対立概念でもない。 塩野七生は「ローマ人(ローマ市民権保有者)」をローマの生き方を受け入れた者と定義した。これと先の天国の意味を合わせると「天国に市民権を持つもの」とは、「キリストの理想(価値観)を受け入れた者」ということになる。 ローマ市民権は収得権であり、お金で買うこともできる。兵役を満了すること、ローマ帝国への功績が認められた者などにも与えられる。決して生まれにこだわるものではない。その権利(国家の保護、社会的地位など)を欲する者が努力して手に入れたものである。 初代のキリスト者が布教していった社会階層は、属州民や奴隷など、ローマ市民権を持たない人たちであった。誰もが憧れるローマ市民権が欲しくてしかたのない人たちである。もちろん、そのためには努力を惜しまない勤勉な人たちだと想像できる。その人たちに新しい価値観「キリスト教の愛」を指し示し、こちら「天国の市民権」の獲得を促したのであろう。 今日風に言い替えるのなら、経済的な成功を夢見ても、貧富の差が大きくなりすぎて、目指す価値さえ見いだせなくなってしまった。自家用ジェット機が欲しい?彼女とのデートに月ロケットを使いたい?ということである。自らを振り返り、穏やかな、誰かに喜ばれるような生活を夢見たい。

10月11日「永遠の住み家」

 「永遠の住み家」という主題だが、内容的には「永遠の命」と同じ意味である。 キリスト教の人間観を少し説明する。人間は肉の身体と霊の身体の二重の存在である。聖書特にイエスが問題にするのは霊の身体についてである。「人はパンだけで生きるのではなくみ言葉によって生きる」とはよく言われる言葉だが、肉の身体を生かすのがパン、霊の身体を生かすのがみ言葉という論理である。実はこの論理、教職者には受けが悪く、熱心な信徒さんほど受けが良いことを実感している。本当に、一週間の日常で疲れ果てた、礼拝に出席してみ言葉の糧をいただいて、元気になるというものだ。 この霊の身体は、み言葉の糧をいただいて元気であると、肉の身体が滅びた後(生物学的な死)に永遠の命を生きることになる。まあ、その居場所が永遠の住みかとなるのだ。 日本キリスト教団は、どちらかといえば来世より現世により強く力点を持つ。ですので、日頃の信仰生活を大切にして、みことばの糧を絶やさないことが勧められる。

10月4日「神と富と知恵」

 神と富と知恵の関係性については、すでに結論が出ています。天地の造り主なる神様が一番です。知恵は神様から出てくるもので有用なもの。富は知恵を用いれば付随してくる従属的なもの。ぐらいの理解です。 近年も繰り返し語られることばに「子どもに残すものは信仰と教育」というものがある。あえて普遍的な表現をもちいるなら、信仰とは善悪を判断する基準であり、何を大切にするのかという人生哲学のようなものとできるだろう。教育に関しては、言わずもがなで、近現代を生き抜くのには必須のものである。日本では、高等学校に引き続き幼児教育までもが無償化されてきている。これらはこの文脈の上にある。 富(お金)は、資本主義社会である以上、必要不可欠である。ただし悪魔的(デモーニッシュ)な性格を帯びているため、こころを誘惑されないだけの「信仰」がより一層大切とされる。 近年になって、通貨に対する考え方も変化してきた。金本位制が終わり変動相場制になって以来、お金の価値は意図的に年々下げられるもの(インフレにコントロールされる)とされている。この状態こそが、安定して景気が良いとされている。詳しくは現代マネタリー理論やらリフレ派の言説にまかせるが、私たちがお金と認識している通貨や預金の価値は変動し徐々に減少するということだろう。 まあ、そんなものより永遠なる神様に心を寄せて、神様からいただいた知恵を頼りに過ごしていきたい。

9月27日「キリストの住まい」

 聖霊降臨説も終盤を迎えようとしている。本日の主題は「キリストの住まい」であり、聖霊様と共に過ごす私たちにとっては、「神様はどこにいるのか」というといになる。 古代ユダヤ教では、エルサレムにある神殿に神がいるといわれていた。その神殿も紀元70年に破壊され今日に至っている。お詣りする場所としては、シナゴークという例は施設になり、今日のチャペルにつながるものである。 ローマカトリック教会は、ペテロの後継者を名乗り、天国の鍵を持つとされた(神の代理人)。教皇と皇帝の権力争いの末、絶対王政ができ王権神授説が語られた。その後、民主主義が発展し、王を選挙で決める(大統領制)ことになった。「民の中に神が宿る(会衆派の原理)」となり、今日に至る。 以上の事柄に歴史的なまとめとしては異論もあるだろう。しかし、神の権威の元に多くの者が集う共同体を考えると大体そのようだ。 私たちは一人一人がうちに神を宿している。会議の席で、投票する際は、各個人が「神の御旨」を代表しているのだ。個人の思いや利益を元に判断してはならない。この点だけはよく憶えておきたい。

9月20日「上に立つ人々」

 ヨハネ福音書の文脈で、主題について検討を重ねてきた。つまり、起源90年前後で、ユダヤ教徒とは一線を画している。ローマ帝国からは無視または、少しの迫害。ローマ市民権を保有しない人たちの心の支えとなっているのが教会である。 そこから眺めると、「上に立つ人々」とは、ローマ帝国皇帝、属州民にとっては総督に従うように勧められている。更には、奴隷の主人にも従うように、例えそれが悪い主人であってもと念を押されている。 当時の社会の秩序は安定しており、身分間の移動も可能であった。だから暴力的な謀反を企むより、従順に労働し出世を狙う方が、平和かつ良い結果が期待できたのである。 今日、私たちの国は民主主義である。民(私たち)が主(あるじ)であり、公務員は総理大臣といえど公僕として私たちに仕えている。つまり、社会的地位が上がり、権限が増すごとに、謙虚な振る舞いが求められる。 だからといって「上に立つ人々」に従わなくてよいのか、というとそうでもない。きちんとした手続きを経て決定したことは民の総意であり、私たちは従う義務が生じる。この場合はどうしても、「最大多数による、最大公約数的な幸せの追求」となり、一部にしわ寄せが生じる。何らかの保証を持って納得することがルールなのだ。  民主主義のルールは、結構複雑であり、忘れ去られやすい。そこで「民の中に神が宿る」「民の声は神の声」を憶えておきたい。もちろん、自分の声は神の声だと主張できるぐらい祈り、慎重に発言することも忘れてはならない。

9月13日「神に属する者」

 ヨハネ福音書の文脈で、主題について検討を重ねてきた。つまり、起源90年前後で、ユダヤ教徒とは一線を画している。ローマ帝国からは無視または、少しの迫害。ローマ市民権を保有しない人たちの心の支えとなっているのが教会である。  その教会では、宣教を広げるために、できるだけいろいろな人に来てもらいたい。その一方で、神様(主イエス)に関することは意見の一致を見たい。ところが、聖霊様のお働きを肯定しているために、意見がまとまらない。というような状況が類推される。神に属するものと属さないものを明確に区別する必要が生じる。  キリスト教史では、そこから聖典(聖書)の編纂や信仰告白の整理、もう少し時代が下ると教会会議による教義の整理となる。  今日も、教会には様々な立場の方が来られる。倶知安伝道所は、町も小さく観光地でもあるために、出身の教派もバラバラ、永続的な礼拝出席も期待できないのが現実である。そのなかで、信仰告白に使徒信条を用いることで、参加のできる人を広げている。→使徒信条の成立が紀元70年頃なので、以降のクリスチャンは全員含まれる。日本キリスト教団を期待する旅行者のために、教団の暦と式文、賛美歌を使用している。さらには、このような方々に負担をかけないように、教会の定期総会を開催し、資産の管理は現住陪餐会員が責任を持つようにしている。  神に属する、属さないは二分法で二元論的にまとめるのではなく、信仰のある人たちすべてに開かれ、かつ責任問題は一元的に対処することが望ましい。 

9月6日「新しい人間」

 ヨハネ福音書の文脈で、主題について検討を重ねてきた。つまり、起源90年前後で、ユダヤ教徒は一線を画している。ローマ帝国からは無視または、少しの迫害。ローマ市民権を保有しない人たちの心の支えとなっている人たちである。新宗教であるために、既存の価値観では収まらない。頼るべき権威も伝統もない状況にある。 たぶん、ひたすら神様を信じて、新しい価値観の中でアイデンティティーを見いだしてきたのだろう。 出エジプト記は、十戒の二度目の付与の場面であり、悔い改めを認める優しい神様が選ばれている。エフェソからは状況が悪くとも、正しい生き方が進められている。ヨハネ福音書は、客観的な証明のない中での、主の立場が弁証されている。 まさしく当時のキリスト者が、厳しい状況を受け入れ、かつ身をただして信仰生活を送っていたことがうかがわれる。 誤解を恐れず、あえて言及するが、新型コロナウイルスに関してマスコミの報道は信頼性が乏しい。扇情的であり、不安をあおっている。多くの人が振り回されているような気がする。聖書の教えに従い「新しい人間」として、情報をより分け、安心して過ごしたいと切に願う。

8月30日「霊に従う生き方」

 本日の主題は「霊に従う生き方」である。聖霊さまが夜ごとに枕元に立って、一つ一つ判断してくれたのなら、それはとても助かるだろう。が、そんなことをいっているのではない。万一、そのような霊が現れたとしたら、とりあえず悪霊の可能性を検討するべきだろう。 主イエスの前に姦淫の女が引き出された。今日的な考えからすれば、「相手の男性は何処だ?」でしょう。いくら律法に書いてあったとしても、一人ではできないことですから。たった一人の女性(顔も名前も特定されている)を大勢(不特定多数)で取り囲んで、というのもずいぶんと卑怯な気がします。律法の名を借りて人の間に不穏の空気を送り込むのは、悪霊の働きだろう。自分自身を振り返るように、主イエスは勧めている。 教会暦は、初代のキリスト者達が迫害の元にあることを前提に、「霊に従う生き方」を勧めている。つまりキリスト教を迫害する「人間には従うな」であり、今日現代の私たちにとっては、自分でよく考えて結論を出しなさい。究極の自己責任と考えることが正しいと思われる。  なにせ、どちらを向いてもキリスト教を応援してくれる声はないのだから、自ら考えて判断するしかない。というよりこれは聖霊さまの導きだと自己責任で判断できた人たちが、キリスト教を伝えてくれました。

8月23日「 神からの真理 」

夏休みに、京都に行ってきました。お昼に「湯豆腐」の看板がありました。私「食べたい」家族「この暑いときに」となりました。結局食べたのですが、家族「すごくおいしかった」となりました。禅寺の会席料理には歴史が有り、思わぬ掘り出し物があったというお話しです。 現代に生きる私たちは、具体的なものと抽象的なことがらを分別して暮らしています。もちろんその方が便利だから良いことです。しかし、それだけで割り切って暮らしている訳でもありません。何かしら、大げさに言うと人生の目標みたいなものを追いかけるのですが、それは抽象的にしか言い表せないのです。その抽象的なイメージを試行錯誤しながら、追い求めて具体化しているのです。幸せ、喜び、恵、等々でしょうか。本日は、おいしいもの、暑い季節に合うもの、が湯豆腐となった経験をお話ししました。  聖書は、最初期の迫害下にある人たちへの励ましのことばです。現代の私たちにはその苦労を追体験することはとてもできません。ただただ、夢や理想、目標をもって堅実に過ごすこと、今ある信仰を保ち続けることが、結果につながると思えます。しかもそれは神さまがなさることですので、私たちの予想とは全く異なる形で、示してくださるでしょう。期待しながら過ごしましょう。