2月7日「いやすキリスト」

 キリストのいやしは、伝統的に奇跡(神の業)の一部と理解されてきた。近代医学が発達する中で、医学的にそぐわない表記が議論される時代もあった。今日は医学とは異なる次元で「いやし」に効果が認められる時代となった。さらには、イエス様が働かれた時代は、病気の原因として、本人の悪行(罪)や神に逆らうもの(悪霊)などが取り沙汰されてきました。当事者にとっては病本来の苦痛に加えて、社会的な負荷(差別など)がかけられていました。キリストの業(いやしの記事)には、病を治す以上に社会復帰への道筋までもがきちんと示されていたことが注目されています。 ところで現代はどうでしょうか。私のところにはこの一年に、コロナウイルスに関する文部科学省からの公式文書が多数届けられました(ウンザリするほど……)。そこには感染防止の具体的な指示と共に、「差別につながる言動を慎むように」との注意書きが、多数含まれていました。 病気で苦しむ方々に、その人たちの行為が悪いからと更なる苦痛を与える人間の姿は、2000年前からいかほども進歩をしていないことを改めて知りました。 私たちには今日の疫学的知識があります。新型コロナウイルスに感染するにしても、また発症するにしても、どれほど用心してもある程度の確率で0にはならないことを知識として知ってはいます。感染した人が悪いとは言い切れないことを理解しています。しかしついつい人にその責任をなすりつけたくなる心の弱さもあります。 せめて、自分たちが差別の発信源になら内容には注意しましょう。社会が正常に戻るように努めましょう。

1月31日「教えるキリスト」

 先週、キリストの宣教が始まって、今週からそのお働きを学びます。教会暦では「教える」「いやす」「奇跡を行う」と学ぶことになっています。 神様(イエスさま)はいつまでもこの世にとどまってはいられない。十字架と復活までという時間制限があります。ですので、その時以降に、その教えを宣べ伝えるものが必要となります。だから何よりも先に、弟子を招聘し必要な事柄を教えたのでしょう。私たちもまた、教え伝えていくことの大切さを確認してまいりましょう。さて、「教える」から現代の「教育」というところに目を向けました。私たちクリスチャンには「子どもに残すのは教育と信仰」という考え方があります。この考え方はそれなりに説得力があります。大きなところで「(残すのは)お金ではない」という意味があります。確かに最近の経済理論によると、通貨発行権のある政府は無制限に発効できるそうです。とにかく、通貨はどんどん増やされるので、その価値は絶対的ではありません(相対的に価値は下がる)。だから頼るにしても限度を見極める必要があります。さらに「教育」そのものに注目しましょう。今日の高度に複雑化した社会に適応するために高い教育は必要だといわれます。かつて「読み書きそろばん」いわれていましたが、今日は「バイリンガルな読み書きとエクセル」とのぐらい変化してきています。日本の教育は「識字率が高くレベルが高い」というのも思い込みにすぎなくなってきました。開発途上国(普通教育が行き届いていない)と思われる国でも女子の60%が、男子ではもっと高い比率で初等教育(読み書きそろばん)を終了しているのがファクトです。先進国にとって脅威となるべき追い上げが現実となっています。これに対応するために日本では、幼児教育と高校教育が無償になりました。9年間の義務教育が15年に延長されています。この状況を理解して、子どもたちに十分な実力を付けてあげるのが私たちの責務です。主の働き「教える」ということの重要性は時代と共に増し加わっているといえます。  主イエスの活動のうち「教える」が真っ先にあげられるのはそれが最も重要なのだからでしょう。改めて自らの役割(幼児教育)を考えさせられました。

1月24日「宣教の開始」

 教会暦は降誕節のままですが、宣教の開始以降に語られる内容は、実際の活動を示しリアリティーのあるお話しとなります。 最初に語られた宣教のことば「悔い改めよ。天の国は近づいた」は、福音書によって少し表現は変わるが、主イエスの基本的で最も大切なメッセージだといえます。 その内容を深掘りしてみましょう。まず、「悔い改めよ」です。ヘブライ語の「罪」は「的を外す」という意味です。ですから、そこから戻ることが「悔い改めよ」に相当します。ですので「向きを正す」ぐらいの意味となります。要するに、心を正しく神様の方に向けなさい、ということになります。続けます。「天の国」は神様が支配する理想の国です。それが近づいたのです。あとは、いつ到着するのかが問題となります。明日来るのか、しばらく先なのか、ずっと先なのか、それとも私たちが何とかして今の世界に働きかけて、「天の国」を呼び込むのか、で私たちの過ごし方が変わってきそうです。 結論から言いますと、「天の国」がやってくるのはしばらく先なので落ち着いて生活をしなさい。そして、ただ待つのではなくて、「天の国」を先取りして、この世界に神様の理想が具体化するように働きかけましょう。というぐらいで落ち着いています。 もし最初期のクリスチャンのように「天の国」が明日来るとしたなら、それこそ「終末」がすぐにやってくるわけで、この世に何を働きかけても無駄に思えてしまいます。つまり投げやりになるのではないでしょうか。極端な意見として、キリスト教の一派に「天の国」を無理矢理呼び込むために、核戦争を起こそうという物騒な話になってしまいます。せっかく神様が人類に対して期待しながら忍耐して下さっているのに、自分たちの力で「終末」を作り出そうというのです。これこそ人の傲慢と思えてなりません。天地創造の折に、「産めよ増えよ」と地上を人間に託し、今まで忍耐強く見守って下さった神様です。私たちはその期待に応えるための努力が求められています。神様の理想を目指して努めて参りましょう。

1月17日「最初の弟子たち」

 教会暦に従って、説教を進めています。ところが「最初の弟子たち」の方が「宣教の開始」に先立つ順序になっています。これはきっと、宣教の業を伝える(弟子の役割)の方が重視されているからだと思えます。選ばれる旧約テキストも使徒書もことばが腹に苦いことを強調しており、厳しい役割が弟子に期待されていると思わされる。確かに宣教の業の担い手は、使徒であり弟子たちであり、今日の私たちがその自覚を持って歩んでいくことが求められるようです。  本日登場した弟子たちについてもいろいろと理解が深まってきました。新約聖書では漁師として紹介されていますが、いわゆる労働者としての「勢子」ではなく、資本家としての「網元」のように思えてしかたありません。父を捨てて従ったとは記されているものの、主の十字架の後に、漁に出ています。船を所有する側だったと思えます。ある程度以上のインテリであればこそ当時の政治情勢に不満を憶えて政治運動に参加したと考えます。 そうすると信仰に篤く、理想を追い求める青年像が浮かび上がってきます。だからこそ、命がけで主の「神の国」運動に身を投じてしまったのでしょう。 もちろん事前に様々な情報を得ていたことでしょう。だからこそ初対面とはいえ、主イエスの方向性を理解していたのでしょう。そこに声をかけられたので、機会到来とばかりに、主に同行したのであろう。とまあ、少し読み込みすぎかもしれませんが、論理的には説得力があると思います。聖書を字句通りに解釈する人たちとはかけはなれてしまします。それでも、日常的に「知らないおじさんに付いていってはいけません」という立場(幼稚園園長)なので、許してください。

1月10日「イエスの洗礼」

イエスさまは実在の人物です。活動されていた頃は「ナザレのイエス」と呼ばれていました。イエスさまが亡くなられてから、「あれは神さまに違いない」という信仰が生まれます。では、「いつから神さまだったのか?」と議論された時代もありました。聖霊によって身ごもったからその時だ。という意見もありました。十字架上で神さまに変容した。というのもありました。公的な宣教活動をはじめるときから。というのが本日のお話しです。まあ、先週までの「クリスマス物語」から現実の宣教活動へとストーリーが転換していきます。 イエスさまが活動を始めるにあたり、先駆けとなったバプテスマのヨハネを訪れます。そして洗礼を受けました。「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」とマタイは記しています。 いろいろと思わされるのですがまず「天が開いた」時点で???となるのではないでしょうか。 当時は今で言う「宇宙空間」という概念がなく、大きなドームに覆われており、(ドームに星(恒星)が張り付いている)その向こう側が天上世界、神々の住まうところと考えられていました。つまり、「天が開いた」のは神さまの住む世界と私たちの住む世界がつながったということを意味します。そして「神の霊」が天上世界から送られ、イエスさまに宿りました。  ということで、特別な力を宿したイエスさまが、次週からその力を生かして,宣教の業に励まれます。お楽しみに。

1月3日「エジプト逃避」

 クリスマス物語では、省略されやすい部分です。ご存じない方のために話を要約すると、三人の学者が、わざわざ「新しい王はどこに生まれるのか?」と聞いて回ることで、ヘロデ大王は主イエスの誕生を知ることとなりました。その時点での王であるヘロデ大王にとってはライバルの登場となります。そこでヘロデ大王はいろいろと奸計を巡らし、イエスを亡き者としようと企みました。ヘロデの悪意を知った聖家族(ヨセフ、マリア、イエス)はエジプトに避難し、ヘロデの死まで隠れて住むこととなりました。イエスを見つけ出せなかったヘロデ大王はベツレヘムの二歳以下の男児全員を殺害させました。 神の御子は、暗黒の時代に生まれ、大変な危機が迫る中、夢のお告げと天使に守られて脱出を遂げた。と、人間のダークサイドが強調して描かれる物語です。 ヘロデ大王は実在の人物で、若い頃は善政を敷きましたが、晩年は猜疑心にとりつかれ、近親者を殺し続けたことで有名です。皇帝アウグストから「ヘロデの子どもに産まれるぐらいなら、豚に産まれた方がましだ」とまで、いわれています。(注:ユダヤ人は豚を食べないから、殺されないだろうという意味)  ところで、「エジプト逃避」のお話しは、聖書の他に外典儀典の形で多数残されています。更には当事者であるエジプト国民(コプト教会)では、巡礼路もあり、とても盛り上がっています。「おらが村にキリスト様が来られた」ということでしょう。史的にはともかく行ってみるととても楽しい旅になります。

12月27日「東方の学者たち」

 この学者たちは年に一回だけ登場します。聖書の他の箇所には登場しないし、神学的にもあまり取り上げられることもありません。それでもとても人気者なのが、「東方の学者たち」です。 強いてあげるなら、キリストは、人の形をした神様です。その神様を最初に礼拝した人類として、とても持ち上げられた伝統があります。もちろん聖書の指針からはかけ離れていくのですが……。ここで「博士」あるいは「賢者」と訳される言葉はギリシア語で μάγοι(マゴイ、複数形)です。この語をラテン語化した形が magi(マギ、英語ではメージャイ)です。 当時の天文学のレベルというと、今日の小学校4年生が学習する内容はすでに確立していました。恒星と惑星は区別され、黄道も確認されています。つまり、決して肉眼で見ることのできない太陽の位置が、天球に描かれていたことになります。今日の科学技術と比べると劣って感じるかもしれませんが、直接に目視で観測する立場を考えると、今日と大差ありません。現代人は知識の蓄積の上に立っているにすぎない。改めて、聖書のみ言葉を新鮮に受け取ることができる。 少々うがった見方になりますが、イエスさまはユダヤ人でユダヤ教の枠組みで働かれていました。中世のキリスト教がユダヤ教を迫害したという事情もあり、異邦人に最初の礼拝をさせたかったのだろうとも思えますが、近代以降はこの話あまり触れられません。

12月20日「告知」

 「告知」とは、乙女マリアの元に天使ガブリエルが訪れ、「あなたは神の御子を身ごもるでしょう」と告げ知らせることである。クリスマス物語の中でも美しく有名な場面であり、有名な絵画もたくさんある。  突然にわが身に降りかかった「救い主を産む」という使命を乙女が受け入れるわけだが、どのように受け入れたのかが昔から議論されてきた。 伝統的には、神からの命であるので、信仰で受け入れたと褒め称えられてきたようだ。しかし、近代の批判的な視線からいうと、「ふざけるな!」というぐらいは許されると思う。神さまの都合で子どもを産ませるなんて、人の身体をなんと思っているのか、となるだろう。 ところが、物語の枠組みだけを取り上げると、なるほどと思わされるところもある。つまり、神さまの命令で、他者のために(全人類の罪を救う)、役割が与えられるということだ。もちろん、ひたすらに自己犠牲を強いられることも無く、「自分自身を愛するように(自己の利益を確保しながら)、隣人を愛する」行為だったと思えるようになった。 近年も、特定の職種に対して「自己犠牲」を当然のように求める風潮はある。確立された感染防御も無いままに、コロナと対峙する医療従事者がそうである。現状では使用可能な病床数を数え、政治的な判断が下されている。気持ちが折れて、退職者が続出する事も頷ける。 乙女マリアのおかげで、今日の世界平和があると感謝の気持ちをもちたい。大多数の働き人が、本当に役割に使命感を持ち、「自己犠牲」を強いられること無く、のびのびと過ごせるような世界となりますように。

12月13日「先駆者」

 先週は、JAXAのはやぶさ2が無事に帰還し、サンプルの入ったカプセルが収容されたというニュースに沸いていた。今回は機械的なトラブルが一切なく、この上もない順調な運用だったそうだ。「先行機である初代はやぶさが道を開いて、はやぶさ2はその道を通ってきた。」といわれている。先行機のはやぶさは、まさしく先駆者と呼べるだろう。初代はやぶさは、機械的なトラブルに悩まされ、その対策には「よく考えられたものだ」と感心させられた。最大の事件は、しばらく、見失ったことだろう。広大な宇宙空間で迷子になってしまったのだ。再び見いだされたときは日本中が喜んでいた記憶が残っている。後日談として、見失われていた期間、初代はやぶさは、自らコンピューターをリセットして、最初から自分の位置を確認し、姿勢を制御し、地球に信号を送ってきたことが判明した。完全自律型ロボットであった。 さて、本日の主題は先駆者である。物事には、大きな変革をもたらせる働き人がいる。この変革は突然発生するものではなく、きっかけとなった先行的な働きがある。これを先駆者と呼ぶ。苦労の割に評価が伴わない場合が多い。キリストの先駆者はヨハネ、洗礼を始めた人だ、悲劇の最期を遂げている。プロテスタント教会にとっての先駆者とは、ウイクリフやフスなどがあげられる。死んでから遺骨に辱めを受けた人もいる。はやぶさは、砂粒ほどしかサンプルがなかった。残りの燃料もなく、デブリとなるのを避けて大気圏に突入し燃え尽きた。半分以上の燃料を残し新たなミッションに向かったはやぶさ2との違いが際立っている。 とはいっても、私たちも自分の人生一代で華々しい成果を上げられるものではない。先人の残した者を頼りに、精一杯働き、次の世代に引き継いでいくものだ。キリスト教会で働くとは、まさしくその通りである。歴史を正しく学び、先駆者たちの働きに目を留め。感謝を捧げたい。

12月6日「旧約における神の言葉」

 「旧約における神の言葉」では、旧約聖書を紐解き、主イエスの登場が預言されていたことを語る日である。が、アドヴェントクランツに灯をともしながら、私の脳裏をよぎるのは「天上における神の言葉」となる。その元話は「宇宙は第二の聖書である」とのガリレオの言葉である。ろうそくを灯すときは、有名な自然科学者を思い起こす。「ローソクの科学」を書いたファラデーである。彼が王立研究所長を務めたときのクリスマス講座の内容が本書となる。 ファラデーの出自は貧しくて、幼いときに徒弟に出された。その徒弟先が印刷業で、そこで印刷される図鑑等を独学で学んだようだ。その才能が認められ、徒弟から実験助手となり、最終的には王立研究所の所長となった。電磁気学で数々の発見をし、その業績はノーベル賞級のものが複数ある。 苦労人で、常に貧しい子どもたちへの配慮に満ちた人生を送っている。彼の最初の発明は、炭鉱で使うランタンであり、爆破事故を防ぐ工夫がされていた。少年たちが教育も受けず炭鉱労働をしていた時代の話である。そのように、厳しい状況にある子どもたちに向かって、当時の最先端の科学技術を教えるのがクリスマス講座の趣旨であった。講義されたのは物理実験のみならず、当時の世界中から集められた、鉱物や工業用の原材料も実物を見せながらの講座であった。「勉強しなさい」「技術を身につけなさい」「そうすれば生活が安定するから」とのメッセージが感じられる。素晴らしいクリスマスプレゼントである。 信仰生活と研究とは峻別していたが、私生活では長老派の一派の教会に属し、生涯にわたって礼拝生活を守った。3回も長老を引き受けたとの記録が残っている。 本来長老職は終身のはずなのだが、研究内容をいぶかった教会員からの「神の教えに反する」との批判を受けて、2度も辞している。もう宗教裁判も無い時代となっていたが、最先端の科学者は迫害を受けるものだ。その中で、科学へ無理解に対して、素直に受け入れ更に三度も長老に就任するとは、誠に心の広い、立派な信仰生活だったといえるだろう。