8月8日「苦難の共同体」

 「苦難の共同体」という主題は、教会の暦からすると初代教会に対して行われた迫害を想起するものでした。現在のコロナ禍において礼拝やこれにともなう信仰生活が「不要不急」という価値観の元に自主規制や自粛警察へのおびえがあり、迫害下とかわらない状況に追い込まれているような気がします。 大きな文脈とすれば、政府が「不要不急の外出を控えてください」といったときに、教会としては、「信仰生活は大切で必要ななものだ」とのメッセージを発し、それから、感染予防に何ができるのかと検討するべきだった、と反省しています。 現在の日本社会を見ていると、経済活動には何ら制限をかける言動はない。そのうえで、人流を控えるべく、都道府県をまたぐ移動、帰省、食事時の会話、アルコール類の提供を抑える、等々規制が語られています。 人間が人間として生きていくのに、経済活動は必要であろう、しかしそれだけでは十分とはいえない。なにかしら、楽しみなり、家族との絆なり、信仰生活なりが必要だし、どれを選び、どれを省くのかは自由な判断が許されてこその人権だと思います。まさしく、人はパンのみに生きるにあらずなのです。人間という存在の本質を忘れた、無理な議論が続いているような気がしてなりません。 人間性・人間らしさを認めて欲しい、自由な選択を認めて欲しい。そうでないなら、本当の意味で緊急事態なら、きちんと法律を作って、平等に制限をかけることだと思えてなりません。自粛の要請に国民が耳を傾けてくれないのではなく、大切なことを見落としていると警鐘を鳴らしたい。

8月1日「宣教への派遣」

 キリスト教が生まれたときは、新宗教でした。そこで、教えを広める「宣教」がと手も大切なことになりました。 選ばれた聖書からはとても皮肉な話が続きます。まず、ヨナ書が取り上げられました。ヨナは神に命じられて、ニネベに滅びの預言に出かけます。ヨナ自身には宣教の意思などありません。ところが、ニネベの町では、全員が悔い改めたもようです。使徒言行録が語るのは、サウロの宣教です。サウロとはパウロのことです。今更ながら、パウロを否定する人はいません。ところが、当時はパウロは主に会ったことはなく、使徒と呼んでもらえずに苦労したというお話しです。最後に福音書ですが、百人隊長が、自分の部下の治癒を依頼するのです。この際、百韻隊長は主に命令だけをくださいと願い、その通りになったというお話しです。 以上のことから、要点をまとめました。宣教の技は大切です。神さまから命じられます。命じられたことをそのまま実行すれば良いのです。たとえ、好ましく思えなくていやがりながらでも、結果は神さまが保証してくださるのです。また、宣教の業に資格は必要ありません.誰でも大丈夫です。なにせ全知全能の神さまですから、結果は神さまにお任せして、私たちはがんばるだけです。

7月25日「憐れみの福音」

 百人隊長の僕が癒やされる話です。基本的には、イエスさまはユダヤ人であり、ユダヤ人の救済のために地上に来たと自覚しています。その治癒能力があまりにも優れていたので、異邦人である百人隊長が自分の部下の治療を願い出ました。願いを聞いたイエスが僕を訪ねようとしました。すると百人隊長は、わざわざ来なくても、ことばだけで良いといいます。イエスさまの力が、神さまと同じであり、言葉だけで天地を造ったものと同じ力があると見抜いていたのでした。イエスさまはその理解・信仰をとても感心されました。そしてみ言葉で癒やされました。と言うお話しです。 本日の主題からすると、神からの福音は、ユダヤ人に留まらず、異邦人にまで及ぶというところにあります。加えて、信仰的にはユダヤ人より異邦人が優れているという伏線もあります。加えて、主のみ業は空間を超えて作用するところは定番です。 ところで、憐れみの福音ということですが、主語と目的語には何が入るのでしょうか。神さまがあなたを憐れんでくださる。だから感謝しましょうということになります。今の人たちが聞いたら「上から目線だ!!」と怒るところでしょうか。ここは古代の非ローマ人は「これで喜んだ」と納得するべきところでしょうか。 まあ、2,000年も昔の文書ですので、すべてが現代人に納得のいくものではないのでしょう。当時の人たちの苦労をおもんばかるだけです。

7月18日「異邦人の救い」

 初代の教会は、神殿詣でをしてユダヤ教に一派でした。ところが、70年のユダヤローマ戦争の後、ユダヤ教はファリサイ派を中心として厳格な教派を形成しようとしました。その際、熱狂的な教派を追い出したのですが、「イエスは主なり」と唱える一派も熱狂的と判断され、ユダヤ教から追い出されました。そこからキリスト教会となりました。それまでのユダヤ教は民族の神への信仰(神殿詣で了解された)が、その神殿を失い各地(シナゴーグで)礼拝する民族主義的な集団となりました。一方、キリスト教会は、ローマからは弾圧され、ユダヤ教からも追い出され、異邦人、属州民へと宣教の対象を広げました。そして人類全体を救う神となった模様です。これに伴い、キリスト教は普遍宗教となり、全世界に広がりました。確かに歴史はその通りです。 特にプロテスタント教会は、教理・教義によって分派する傾向が強く、各教派の教えとして他宗派への批判が中心となりがちであり、まとまりにくい性格を持ってしまいました。 ところが現代の私たちは、いくつもの教会を回って比較して、キリスト教の教派の善し悪しを比べて、出席教会を決めた訳ではありません。それどころか神道と仏教とキリスト教を比較したこともありません。親の教えを受け継いだとか、たまさか礼拝に出席して、心に安寧を憶えたぐらいで、最初に触れたキリスト教にずっと所属しているのにすぎません。イスラエルから地政学的に眺めると、最初のキリスト教は正教会として北上して日本に至っている。ローマカトリック教会は、東進して日本へ。プロテスタント教会は西進してアメリカ大陸を横断し日本に至っている。もう一度一つになるチャンスがある。といわれています。懐の広い教会形成を目指したいと思います。

7月11日「生活の刷新」

 キリスト教が始まって、最初のクリスチャンたちは、従来のユダヤ教から生活が一新しました。ユダヤ教から分離したキリスト教は、ローマ世界では新宗教であり、ユダヤ教から追い出されてもいたので、必然的に伝道していく宗教に変わりました。 ちなみにユダヤ教とイスラム教は、伝道をしない宗教です。伝道しないでどうやって広げるのか?そこでは、子どもを信仰に導くのは親の責任と説かれています。そして、代々と子どもが増えれば信徒が増えると考えてきました。 それはそれで問題も指摘されています。例えば、自分たちでコミュニティーをつくって、地域の住民と交わらないため、トラブルの要因となったりします。今日も○○人街をつくってトラブルを起こしています。がしかし、今日の日本キリスト教団の教会では、子どもたちにきちんと信仰を伝えることが大切だよと考えるきっかけにはなるでしょう。 そこで、本日の聖書箇所ですが、従来の家の宗教からの脱却を目指した聖書が選ばれています。  エレミヤ書では、自らの行いを正すよう求められます。伝統に則って「主の神殿」と唱えているだけでは足りないということです。  使徒言行録では伝統に則っているはずの、ユダヤ教の祈祷師たちが批判されています。つまり、イエスの神パウロの神が御利益をもたらすとなっています。  福音書でも、日頃の行い、特に、隣人愛の実践がすすめられています。  いずれも、伝統的な信仰、たぶん日本文化でいうところの「お参り」に対しての「御利益」は批判的に、生活を刷新して、教えに従う生き方が求められているようです。

7月4日「祈り」

 「祈り」という主題が与えられました。信仰生活の中でもとっても大切なことです。 まずは、ソロモン王が神殿を建てたときの祈りが紹介されています。祈りは神さまとの対話です。そこでは、神さまを大きな存在として褒め称えます。次いで自分自身を小さな者として謙遜します。そして祈りの内容です。1テモテに要約されています。「願いと祈りと執り成しと感謝」と揚げられています。全くその通りです。 イスラエルの民は時代によって大きく立場が異なり、そのことが祈りの背景に影響を与えています。背景として気づくのは、ソロモンは独立国の王として(主権者)として祈っています。1テモテでは、ローマ帝国の属国の民なので主権者への気遣いが見られます。「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。」聖書は正直ですね。 いろいろと思わされるのは、福音書の「裁くな」の記述です。これと「祈り」との関わりについてです。「祈り」という行為ですが、相手の幸福を願って祈ると「祝福」となり、不幸を願うと「呪い」となります。だから、人を裁く思いで祈ると呪いをかけてしまうのです。さらに、この行為は危険で反動が帰ってくることもあります。これが、「自分の裁く裁きで裁かれる」ことになってしまいます。だから、そのような危険な行為を避けて、祝福だけにしましょうというお勧めです。 まれに、自分にそのつもりがなかったとしても、間違って呪ってしまうこともあるでしょう。幸い、私たちの神さまは意思のある存在なので、そこで調節してくださいます。 まあ、それも神さまに手間をかけますので公の席では「祈祷文」を用いて、失敗のないようにしています。

6月27日「主にある共同体」

聖霊降臨節なので、共同体(教会)の在り方について考えましょう。 使徒言行録に記された信徒たちの姿は、原始共産社会と呼ばれ社会や思想に影響を与えてきました。年の若い頃は、「みんなで持ち物を分け合うなんて素晴らしい」と思ってしまいがちです。しかしこの考えを突き詰めた共産主義が「お金持ちを殺して(?)その資産をみんなで分ければ幸せになれる」程度の思想でしかないそうです。そんな乱暴な話だったの?と思われるかもしれませんが現実を見てみましょう。ソビエトが崩壊し、北朝鮮も独裁で国家としての経済が伸びません。中国に至っては独裁的な資本主義でしょう。 経済学的に見ると、共産主義の思想は金本位制のままに見えます。お金持ちがどれほど稼ごうがため込もうが、政府が通貨の供給を増やせば元の木阿弥です。資本主義方が明らかに優位ダと思えます。それでもなお、格差を問題視する視点もありますが、大富豪の資産はすでに天文学的な数値となり、とても個人では消費しきれないでしょう。言い過ぎかもしれませんが、景気の指標とされるGDPとは通貨の運動量のことでしょう。その運動量がエネルギーを生み出して経済を動かしているようです。 私たちが着目すべきは、貧しい人たちであり、彼らが健康で文化的な生活を維持できるだけの「手当」があれば足りる気がします。(克服すべきは嫉妬心ではないでしょうか) 聖書は旧約時代から一貫して、弱者の保護、貧者の救済を掲げてきた。不正は憎むが、富裕であることは悪とはしていない。今日的にも耳を貸せる内容と思います。

6月20日「生涯の献げ物」

  聖霊降臨節も進んでまいりました。聖霊様のお守りの中、自分たちの信仰生活を守るために、この世の教会や説教者を維持・継続させることは必要なことです。そのために献金は欠かせない物です。だから、「生涯の捧げ物」はとても大切になります。 旧約聖書では、収穫物の初物を捧げるよう命じられています。その際に信仰を告白します。そこでまず、自らを「滅び行くアラム人」と称する下りが謙虚で好きです。たぶん王国の最盛期であるこの時期に、出エジプトの出来事を神さまのみすくいとして受け止めて感謝して捧げるのです。時間差は出エジプトの事件以来500年を超えます。五〇〇年前の神の御業に感謝して捧げるのです。ついつい目の前の事象に心を動かされる現代人の私たちも見習いたいものです。 2コリントからは、貧しい中から他の教会を援助する姿が、褒められています。その中で、出エジプト直後の荒野の40年間のできごと、毎朝降り注ぎ民を養ったふしぎな食物マナ(神さまが直接に民を養った事件)が例えられています。 「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」神さまは必要なものを必要なだけ与えてくださるという意味です。 最近のマスコミは経済格差に言及しがちですが、大富豪の資産は使い切れません。月ロケットで彼女とデートが有名です。飢えて亡くなる方よりも、鬱で亡くなる方が多い社会では、健全な関係性が求められているように思えてなりません。 神さまからの恵みに感謝すること、そしてそれを隣人と分かち合うこと、時が良くても、悪くても、心静かに安定して行いたいものです。

6月13日「世の光としての使命」

 まず、聖書に記される「光」について考察しました。聖書の登場する光には2種類あります。天地創造の最初につくられた「光」と4日目につくられた太陽の発する「太陽光」の二種類です。簡単にいうと、元気な人が明るく見えるのと電灯が眩しいときの違いとご理解ください。  神さまからの光を受け止めると、人は元気になり内面から輝きます。これは人として良いことです。本日の主題「世の光としての使命」を、具体的にいうと以下のようになります。まず、正しい信仰生活を送り、この神さまからの光を受け止めます。続いて、御旨にかなう生き方をして、この光を活用します。するとこの光がより一層輝いて、その姿が人目につきます。それが世の指針となるでしょう。 現在、コロナウイルスのワクチン接種が推し進められています。これにも二つの面があります。ワクチンを受けた個人が、かかりにくく、かつ治りやすいという面があります。もう一つは、免疫を持つ人が人口比70%を超えると、ウイルスが消滅する(集団免疫)という面です。政府の立場としては、ワクチンの接種を急いで、集団免疫を確立したいのでしょう。ところが、マスコミは副反応等のリスクを過大に報道して、事態を遅らせようとしているように思えます。  世界的に許容できる範囲のリスクで、きちんとした備えをしての、ワクチン接種です。個人の意思も尊重されます。率先して、ワクチンのメリットを受けたい人が、人口比70%を超えれば目標に到達できます。プレッシャーのないところで自由な判断に任せるべきだと思います。 様々な理由で、摂取を拒む人が差別されることのないように、率先して接種を受けた人は、個人として重篤化しない以外にも、全体にたいしてコロナ撲滅に貢献していることを誇れるように、すすめてくれたらなと切に願います。 

6月6日「悔い改めの指針」

  新約聖書に展開される「悔い改めの神学」にはバビロニア捕囚期の議論が反映されています。古代社会は多神教で、国家にはそれぞれの守り神がいました。ユダヤがバビロニア帝国に滅ぼされたのですが、それは古代人にとって、ユダヤの神(ヤハウエ)がバビロニアの神に負けたことを意味します。バビロンで生活する捕囚された民(ユダヤ人)はそのことを散々馬鹿にされました(詩編参照)。そこには、バビロニアの神に鞍替えをしたユダヤ人もいたはずです。彼らはその時点でユダヤ人ではなくなってしまいます。自我同一性(アイデンティティー)を失ってしまうからです。ユダヤ人たちは、全知全能で天地の造り主である神がなぜ負けたのかを考えました。神さまが負けるはずはありません。神さまの御旨に従えなかった自分たちが神さまから見捨てられたのだと結論しました。そして、神さまは未来永劫に自分たちを見捨てたのでしょうか?そんなはずはないでしょう。自分たちが悔い改めたら、神さまとの関係が回復して元に戻れるはずでしょう。そして信仰を深めながら保ちました。 その後、バビロニアから帰還が許され、国家を再建しました。ただし大国の属国として、との条件が付きました。悔い改めに効果はあったのですが、微妙に不足していた?ぐらいがイエスさまの時代のようです。 それでも、「悔い改めに許しが与えられる」という神学は人々に希望をもたらせ、キリスト教として世界に広がりました。と私は考えています。