10月6日「世の富」

 私たちキリスト者は、神さまの元に「恵」があり、これを礼拝や信仰生活を通して分けていただき、みんなで分け合って生きている。この恵は不思議な性格を持ち、私たちが必要とするものに形を変わってくれます。例えば、食べ物であったり、衣服であったり、場合によってはお金にもなります。だから、恵を大切にしなさい。一方、ここで言われる「世の富」とは恵からの生成物にすぎません。こころを惑わされてはいけません。本当に大切な恵を見失ってはいけませんという教えです。  ここで取り上げられているのが、ルカ書の「不正な管理人」の喩えです。不正を働いた管理人が更に不正を働いて仲間を増やす、これが主人にほめられるという話しです。「???」というのが正直な印象です。  できるだけ整合性のある私なりの解釈を試みました。主人=神、管理人=祭司、借りのある者=一般庶民とします。主人の持つ財産は「恵」で総量は無限にあります。庶民が借りているのは「罪」です。(神さまの方を向かずによそ見をしたということ)管理人にしても借りのある者にしても罪人です。代価を支払う能力はありません。主人である神に贖ってもらうだけです。管理人と借りのある者は互いに不正を働いて借財を減らします。つまり互いに許し合って神に贖ってもらっているのです。  赦しの本質は神さまにあるのですが、管理人と借りのある者のやり取りを見て「まあいいか」と苦笑いをする主人の姿が、神さまらしくていいですね。  私たちは互いに赦されていることを確認しながら、共に歩んでまいりましょう。

9月29日「新しい人間」

 教会の説教で「新しい人間」といわれると、これからの自分はどんなことをしなければならないのか、更なる負担に意気消沈してしまいます。多分、今までさんざん「お説教」を聞かされて育ったせいでしょう。  ところで、キリスト教で「新しい」といえば、キリスト(西暦0年)以降です。つまり、2,000年前からずっと新しいのです。ですから、いまさら追加で「~しなければ」ということは何もありません。ご安心ください。ただ、その2,000年前に新しくなったことが何かを毎年確認することを聖書日課は勧めています。  古いとされるのは、律法に明示された「やってはいけない」こと集が、新しく愛の宗教と呼ばれる「してあげたいな」へと変更がなされました。もう一つ言って良いなら、神さまとのおつきあいが神殿経由の間接的なものから、「アッパ父よ」と呼びかけられる直接的なものに変わりました。 放蕩息子が赦されるお話しがあります。赦されるのは弟です。都市部では皆さん納得して聞いてくださいます。ところが長男が先祖伝来のお墓と田んぼを守ることが義務のような地域・地方では、ものすごい反発を受けました。なにせ弟に渡した半分の財産を作るのに兄も苦労しているからでした。要するに、「大都会で自由に過ごして、つらくなったからといって、帰ってこられても食い扶持なんてないよ」ということです。とても容認できないというのが本音でしょう。 限られた財産を分配して浪費する。これは赦されるはずのないことです。ところが、限りのない財産だったらどうでしょう。無限は神さまの属性で、神さまの元にはいくらでも恵があります。どれだけ弟が浪費をしても、無限の恵は減りません。だから兄は安心して弟を赦しましょう。というお話しです。もちろん、だからといって、安心して再び放蕩を繰り返すのは無しですよ。こころから悔い改めるのですよ。というお話しです。 主イエスの十字架によって、私たちはすでに赦されたのだから、私たちも許し合いましょう。無くすものはありません。なぜなら神さまから無限の恵みが与えられるのだから。 ということです。心情的にはついて行きにくいかも知れません。それでも,神さまが仰るのですからね。

9月22日「十字架を負う」

 私たちクリスチャンは、主イエスの弟子として働くことが期待されている。本日の聖書日課には弟子となるための、たいへん厳しい要件が示されている。 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」  まず、主の十字架とはいったいどのようなものであろうか。神学的には全人類の罪を一身に担っている。だからとても重たいものだろう。とはいいながらも、すでに十字架によるしょく罪は完成しており、もはや私たちの負担分は残されてはいない。それでも主の周りには、御利益に預かりたくて「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」が溢れていた。このお世話をする係としての自覚は求められる。各自がそれなりに与えられた役割を担っていくことになるのだろう。  筆者は家族を大切に思いながらも、倶知安の地に単身赴任で来ていた。主の御旨と信じたからだ。更には、夢にも思えなかった建築事業も成し遂げさせられた。神さまの導きを信じ、与えられた業に真摯に取り組むことが求められるのだろう。

9月15日「神のわざが私に?」

 子どもの頃から頭の上に「?」が浮かび上がる聖書箇所でした。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。」(理不尽な印象もありますが、これは古代人の考え方として理解できました。)ところが「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」という答えに「?」がつきまとうのです。そんなこと(神の栄光を現す)のために、半生を全盲で過ごさせるなんて、神さまはひどい!!、と思っていました。  ところが全盲のゴスペルシンガーが、自分の目が不自由なのは「神の業(栄光)を現すためだ」と力強く語る姿を見て、びっくりして、納得してしまいました。  落ち着いて考えてみました。生まれながらに目が不自由な人は、その状態が当たり前の常態なのだろう。その目が見えるようになると今度は、常態からより良い状況となるのでしょう。もとが普通だったのだから。飛躍的に状況が良くなることは、確かに神の業ですね。  なにかややこしいお話しのようですが、これこそが健常者の思い上がりと指摘された気がします。上から目線の自分を恥じます。  すべての人が、神さまから恵をいただいて生きています。その恵を輝かせることに、互いが配慮し合うこと、そこに神の国が実現するのでしょう。

9月8日説教「誘惑・試みからの救い」

 主の祈りからこの一節が選ばれています。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」 私たちキリスト者は、神の御旨に従って生きることを志しています。すなわち、常にこころが神さまの方を向くように努力をしています。実のところこれがなかなか難しくて、毎週のように礼拝に出席して、罪の告白をし、赦しを請い願っている。これは守れないことが前提となっており、守れなかったから直行で地獄落ちというわけではありません。きちんと礼拝生活を送っておれば、それほど心配するほどのことでもなさそうですね。  誘惑にちなんで少し神学的な話しをするなら、最も危険な誘惑とは、自分が何でもできる、何もかも自分がなしたとかいう類いの思いを持つこととされている。これを難しい言葉で「自己の絶対化」と呼んだりします。絶対という概念は難しいが、対立する概念としては「相対」を考えると判りやすい。「神の前に私は罪人の一人に過ぎません」という表現は自分を相対化しているといえるでしょう。科学者達が宇宙の成り立ちを考える際にキリスト教のGodが使いづらく「something great」を信じるとされるのも、自己(科学)の絶対化を避けたい気持ちを表しているように思える。  ところで最近流行の言葉に「上から目線」というものがあります。これは批判的に用いられることが多いようです。自己を絶対的な立場と認識し、他者を見下げる物言いをすることにたいする批判のようです。ところが語り手が「上から目線で言われたくない」と話し始めると、この語り手こそが上に立とうとしているのかしらと感じてしまうことが多い。専門家の専門性までも「上から目線」の名のもとに拒否しているように聞こえてしまうこともあります。自分自身が専門職なもので余計気になるのかも知れません。‥常に謙虚に振る舞とは難しいものですね。

9月1日「信仰の証し」

 いつの間にか、私たちの国「日本」では、信仰とは心の中の問題と思われるようになってしまった。本日の主題に初めてふれた方は、「こころの内面をどうやって証し(証明)するのか」とギャップを憶えるかも知れない。 ところがキリスト教では信仰とは「公に口で言い表すもの」で定式化されたいくつかの「信仰告白」が礼拝の中で用いられている。最近の研究によると同じ信仰告白=同じ人間、異なる信仰告白=異なる人間、つまり大げさに言うと人権にまで影響を及ぼすほど大きな問題であったそうだ。(宗教戦争)  今日でも厳密に言えばプロテスタントは「信仰のみ」であり、ローマンカトリックでは「信仰と行為」としてそれぞれに定義が異なるようだ。要するに日本的にこころの内面の事柄としての情緒的な受け止め方とはことなりかなり厳しいものとして位置づけられている。 私たちの日常としてはそこまで厳密に理解することは現実的ではないようだ。それでも、明確に言語化されていることは意識して欲しい。 その結果、信仰の中身が明文化されていることから、その文言がその人の行動を規制するものだ、というと難しく聞こえる。しかし、「神さまを信じます」という人が神を冒涜する行為はしないだろう。「あなたの隣人を愛しなさい」と教えられている人が現実の隣人をないがしろにはしないものであろう。 神さまの性質として「光あれ」との言葉が光となったという天地創造の物語からも推し量れるが、「言行一致」は高く評価される。 現代社会が複雑化しているので、何処までこだわれるのかは、もちろん限界がある。それでも言葉と行いは一致することが望ましいし、例えできなくても何かしらの思いを持ってすごすことが勧められる。  神の御旨に近づけるように務めていきたいものです。

8月25日「主の来臨に備える」

 キリスト教は時間に対して始まりと終わりを想定しています。つまり「始まり」と「終わり」があると考えています。そして本日の主題は終わりの時を意識して緊張しながら過ごしましょうという勧めです。

 ここでいう始まりとは「天地創造」のもの語りで示されます。私は小学校へ上がる前から教会に通っていました。ところが、「天地創造」は学校に上がったとたんに全否定されてしまい、進化論が正しいとされました。もやもやしながらも、なんとなく時が過ぎるうちにビッグバン理論(宇宙(時間)に始まりがある) ことが示されました。(これは個人の内面の話しなので、学年、科目は入り交じっている)天地創造とは異なるが、「始まり」があることを知ってなんとなく安心した記憶があります。

 さて、「終わり」についてですが、始まりと終わりがセットなので、始まりがあったのだからいつかはくるのだろうくらいであまり悩みませんでした。一時期流行したノストラダムスの大予言は鼻で笑っていました。どうやら終末論を強調しすぎると弊害が多いようです。なにせ、この世に、なんとかの予言は無数にありますが、どのような曲解をしても外れてしまうのが「終末」です。当たった試しがありません。「終末論」を盾に将来への備えを無視する教派もあります。年金の積み立て分を献金に回せという教派もあります。教職者の年金を積み立てず、信仰の継承に支障を来す例もあります。(牧師の子弟が親の扶養を拒否する)

 答えをいいますと、主の来臨がいつになるのかは誰にも判りませんということになります。 神という絶対的な存在は、私たちが置かれている時間軸とは異なるところに存在しています。故にその行いを予測することは不可能です。もし、誰かがあなたにだけ特別に教えてくれるという人がいたら、その人は「嘘つき」と思ってください。

もっとも時間が無限にあるからといって、のんびりしすぎるのも問題だとおもいます。たとえこの世の終わり(終末)が遅れているといっても、私たちには限られた時間しか赦されてはいないのです。 神学的に限りある時間の流れとはいっても、歴史的にはざっと7,000年ぐらい数えることができます。私たちの生涯はほんの僅かしかありません。神さまから託された努めを果たして、次の世代に託していくのが本来あるべき姿です。私たちに赦されているのは限られた時間ですが緊張感を持って臨んでいきたいものです。

8月18日「隣人」

 キリスト教は愛の宗教です。「互いに愛し合いなさい」という教えです。強烈な「敵を愛しなさい」もあります。基本は「あなたの隣人をあなた自身と同じように愛しなさい」という教えになります。  愛は抽象的な概念であり、具体的な定義は難しいとされてきた。そこに、マザーテレサが登場し「愛の反対は無関心です。」と定義してしまった。以来、愛とは関心をもつこととなってしまった。キリスト者が「憶えてお祈りします」といえば愛の行為と認められるようになりました。  愛という言葉に自己犠牲をイメージする方も少なくありません。しかし、あくまでも「自分を愛するように」であり、自分を大切にすること(自己愛)のできる人こそがふさわしいように思えます。もちろん自分以外の他者に自己犠牲を求める行為は、論外です。巷では「善意の搾取(強要)」という物騒な言葉が流行しています。教会は、このような誤解を招かないよう注意したいものです。  こうして、自分を大切にできる人が、隣人を大切にして、互いに犠牲を強要しない関係性を作ることが隣人愛の最新の理解ということになります。自らすすんで他者の益になるように努めましょう。しかもそれがWinWinとなるように。必要なめぐみはすでに与えられていると信じながら。

8月11日「神の真実」

 聖書はアブラハムの死と葬りのお話しです。死の様子は「長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」と最高級の祝福を受けたとくくられています。(天国の概念は新約聖書以降です。旧約聖書では満足した状態で静かに過ごすのが理想でした。)更には、最愛の妻サラと共に葬られ、祝福されていることを示しています。  土地の所有に関しては、古代の習慣が反映されています。遊牧民であるアブラハムは、本質的に私有する土地を持てず、定住民から正式に(相場より高く)買い取り、譲渡の証しを残してやっと保障されるようです。たいへんな苦労の末ではありますが、跡継ぎにも恵まれ、安心できるお墓に葬られる。神さまはきちんと最後まで面倒を見てくださるのです。  現代の中国籍の人たちが北海道の土地に投資をするのは、共産圏では土地の私有が認められないからだと言われています。どうやら、中国政府より日本政府の方の信用度を高く見ているようですね。旧約聖書は今日現在の事象を読み解くのにも一役買ってくれます。  ただ、聖書のメッセージは、土地(被造物)にこだわるよりも真の所有者(神さま)こそが、すべてを託するのに値するといっています。  もちろん私たちは自分たちの将来に対して、可能な限り予測して、備えはします。しかし、一旦決断したことは、なんとなくの不安に囚われず、神の御旨に従ってまいりましょう。

8月4日「女性の働き」

 女性の働きという主題のもとで選ばれたテキストは、旧約聖書からラハブのお話しです。彼女は主への信仰を語っているようにみせながら、自分が所属する社会(エリコの要塞)を裏切っている。しかし、同時に家族の安全を求めている。というより、家族の安全を求める余り、主の側に付くことを選んだ。この視点からすると、福音書も使徒書も、家族を守るために主の味方になることを選んだ(と推測される)女性の名前が挙げられている。それぞでの連れ合いである男性(主が反体制とするなら、彼らの多くは体制側である) の所得を献金している。 家族を守る女性といえば、第一に母を思い出す。大正7年の生まれで、戦中戦後のたいへんな時期に、たくさんの家族を養った人物だった。筆者が幼い頃、身のまわりは高度経済成長期で何もかもが良くなっていくのに、その恩恵が我が家に回ってこなかった。(ほんの少し貧しい加減だった)いわゆる子どものわがままで、あれが欲しい、これが欲しいと言ったものだった。このわがままに対する母の答えは「自分はひもじい思いをしながら大きくなった。おまえにはそんな思いを一度もさせたことがない」というものだった。自分が受けた境遇よりも、おまえにはより良い境遇を与えている、ということだった。さすがに「仰るとおりです」としか答えようがなかった。  あらゆる統計を見ても戦後の70年間ですべてが良くなっている。人類発祥以来、終戦当時まで平均寿命は50年であり、あまり変動していない。「自分が受けたよりもより良い境遇を」という母(女性)の働きは結実している。日本の社会全体もその方向性を持っている。  私たちもこれに習いたい、できるならば主の教えに従って、次の世代のものたちすべてに、より良い境遇を残したい。