2月2日「新しい神殿」

 神殿とは、神さまと出会う場所という理解ができます。ユダヤ・キリスト教の伝統では、エルサレムの神殿が有名です。ダビデ王が建設を試み、神から拒絶され、時代のソロモン王が建設した。(第一神殿)その後、バビロニアに占領されたときに破壊された。ペルシャ王クロスに帰還を許され再建を試みる。(第二神殿)これはみすぼらしかった。ヘロデ大王の時代に大幅な改築を遂げた。(イエスの時代)紀元70年のユダヤ戦争でローマに破壊された。跡地にはこの地を征服したものたちがそれぞれの神殿を設立した。現在はイスラム教の岩のドームが聖地として建てられている。ユダヤ教の神殿は一部が残っており嘆きの壁として有名である。  世界に唯一の神殿とすると、このような悲惨な奪い合いが永遠に繰り返されることになる。  信仰者が集う場所として、各地にシナゴーグが建設されるが、これは教会の原型と考えられる。  キリスト教がユダヤ教から決別されたときにシナゴークからも追い出された。このころから、信仰者一人一人の心がイエスを通して神さまと結びつき神殿と称されるようにもなった。(聖書が書かれた時代)とはいいながらも、心のよりどころとして目に見える建て屋を必要とするのは、人間の姿だろう。大きさや様式は様々あるが、落ち着いて祈る場所を定め、時を定めて祈る習慣を大切にしていきましょう。 

1月26日「宣教の開始」

 宣教とは、教えを宣べることです。教会以外にも幼稚園等の教育機関や、医療機関で行われる、「お話し」はかなり厳密に整理されており普遍性のあること(倫理)しか語られません。クリスチャンになってもらう事を目的とした、布教・伝道とは異なる扱いになります。確かにイエスさまが語り始めたときはユダヤ教の教えを宣べていました。後にそれがキリスト教に整理されました。  人間が直接的に主を垣間見ることは許されません。あまりの熱情に生身の人間には危険なことなのです。そこで、人間の姿をしたイエスさまが表れ、生身の人間がイエスを通して主に臨むことが許されるようになりました。  こうして私たちは主の御旨を知るものとなりました。  ユニークなのはカナの婚礼です。マリアは母としてイエスに命令します。イエスは「まだ時ではない」としながらも従います。→ここで神の御力が示されました。その内容は婚礼へのはなむけで、水をぶどう酒に変えてしまったのです。イエスは飲酒をします。贅沢品を好みます。人を楽しませることが大好きです。ここで示されたのは神さまの本質です。  神さまの御許にある恵は、人を喜ばせるものであり、時として高級ワインになるほど贅沢なものです。  神さまの御業を示す教会の宣教は、豊かさを感じてもらうことにあると思います。手段は状況によってさまざまであり、予算に限りはあります。はじめて参加した人が「豊かだな」を感じてもらえるように工夫することが肝要です。

1月19日「最初の弟子たち」

 教会暦では、宣教の開始よりも、弟子の召命が先に来ています。これは、イエス様の生涯が、あまりにも限られているため、その後の弟子たちの働きが重要視されているものと思われる。  ところで、旧約聖書では「聞き従う」、新約聖書では「従う」ということばがそれぞれ多用されています。「聞き従う」とは命じられた内容を確認して実行することを指す。「従う」とは、一切の疑問を挟まず、盲目的に従うことを意味します。  そこで、旧約聖書の預言者の召命物語、同じく福音書の召命物語を読むと、その両方を含むと読み取れます。 まあ、「聞き従う」では、人の主体性が含まれます。良いことのようですが、全知全能の神に逆うことになります。一方「従う」では、 神に従順という良い点と、カルトに騙されそうという不安もあります。結局のところ、どちらか一方ということはなく、両方の性質が聖書に描かれています。  さて、当事者としての私たちは、どのようなスタンスで神の召しに答えるのでしょうか。といっても「召し」に物的証拠はありません。存在を証明できないのが神様です。神様のせいにはできません。最終的には自らの意思が働きます。客観的な情勢からどれほど導かれようとも、神様から与えられた自由意志が判断の基準となります。  まあ、だからこそ、信仰生活を維持して魂の状態をコントロールすることが求められています。  「神様の召しに答える」という思いを大切にしましょう

1月12日「イエスの洗礼」

 聖書学的にも神学的にもバプテスマのヨハネが「先駆者」として活動していたことは大切です。そしてその後に登場したイエスさまが洗礼を受けて、王としての活動を始めたということは毎年毎年語られるところです。 イエスの洗礼の場面で、霊が鳩のように降ってきたといわれている。私たちの知るイエスさまは、神の御子として公の活動を行っています。そこには人間イエスとしての苦難の姿もあれば、神の力を内に宿して存分に力を振るう場面も描かれています。では一体いつからイエスさまの中に神の力が宿ったのか、と初代教会では議論があったようです。  議論の詳細は割愛するとして、人手あるイエスさまの中に神さまの力が宿る瞬間を描くのに、「霊が鳩のように降ってきた」のは視覚的にも説得力のある表現だと思えます。  ここから、神のみ子イエスキリストの物語が始まります。楽しみに読み進めましょう。

1月5日「受肉の秘儀」

 現代的な感覚からはかけ離れたお話しになります。  神様は霊的な存在です。その御子も同じく霊的な存在です。天地創造の以前からあり、言とか知恵(ロゴス)と呼ばれます。この霊的な存在が人間の肉体をまとったことを「受肉」と呼びます。このことは、公に明かされることがありませんので、秘密の教義(秘義)と呼び習わしています。  このことを通して、肉体に捕らわれている私たちが、霊肉兼ね備えたキリストを通して、救いに至るという論理になっています。難しいですね。  以上は 『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』の後半部分に関わる教義です。現代では「精神的な養い」と軽く思われがちなところです。しかし、真剣に受け止め、行動に移すと御利益の大きいことは、まず間違いありません。  自分自身の内にある「霊的な部分」に対し、意識的に養いを与える行為を私たちは大切にしていきたいと思います。神様の祝福を祈ります。

12月29日「見て、信じるもの」

本日の主題を見て「あれ、見ないで信じるものだった?」と思いませんでしたか。それはトマスが復活の主にたしなめられる時のことばです。主の復活は「見ないでしんじる」ものですが、ヨハネ福音書では主が数々のしるしを示しているのだから「見て信じる者」が求められます。   にしても、見ても信じない者が大半で、イエス様がイライラしているのが読み取れるテキストです。それは、5,000人もの人を5つのパンで満腹させたのだから、もっとたくさんの人が来て、もっとたくさんのパンを求めるのももっともな気がします。すでに示したのにさらなるしるしを求められています。これに対してイエス様は信仰が足りないと嘆いておいでです。  この様子から、人間の貪欲さやあさましさを読み解くことは可能です。しかし、信仰が足りない、という表現とうまくかみ合わない気がします。  5,000人の供食を果たしただから、将来の食物を心配することなく宣教の業に専念する。これが理想でイエスさまを信じるということだと思えます。一方、5,000人の供食を果たした。すぐさま更に明日の5,000人分の食物を心配する。のでは信仰が足りないということなのでしょう。なんとなくの不安や、もっともっとという思いに駆り立てられてしまいます。出エジプト記のマナはみんなが少しずつでも余分に取り置くと、腐ってしまい使い物にならなかったとか。神様からの恵みは必要に応じて十分、かつ余分はありません、ということです。 信じることは確かに難しく思います。

12月22日「告知Announcement」

アドベントの第四週は、神の御子の御降誕を告げ知らされた物語が読まれます。In the fourth week of Advent, a story is read that announces the birth of the Son of God.私たちの倶知安伝道所、めぐみ幼稚園にも良い事があったのでお知らせします。We will let you know that our Kutchan Mission and Megumi Kindergarten also had good things. 私たちの敷地は、囲繞地であり瑕疵物件と呼ばれる状況にありました。Our site was a surrounding area and was called a defective property.この度道道ニセコ線沿いの家屋を購入することができました。This time I was able to buy a house along the road Niseko.これで、表通りに接する土地になりました。The site is now in contact with the street.加えて、今まで所有していた土地も、表通りの価格に評価されるので、含み資産ですが16,500万円ほど上昇したことになります。In addition, the site owned so far is also valued as shown in the list, so the unrealized assets have increased by about 165 million yen.素直に単純に喜びたいと思います。I simply want to be happy.重ねて、自信を持ってこれからの活力へとつなげたいと思いました。Again, I wanted to confidently connect to the vitality of the future. キリストの降誕は、人類史を二分する出来事だと理解されています。The birth of Christ is understood as an event that bisects human history.それは単に、ナザレの町に、風変わりな人物が生まれたことでした。It was simply a strange character born in the town of Nazareth.当時の歴史家には見過ごされた事でした。That was overlooked by historians at the time.それが、歴史を変えてしまいました。That has changed history.  この町倶知安も激動の時代にあります。This town Kutchan is also in a turbulent era.外国資本が入り、外国籍の人が町を闊歩し、地価が3~4倍に上がります。Foreign capital comes in, foreigners walk around the town, and land prices rise three to four times.高齢者は町を出て行きます。The elderly go out of town.地元の人たちは、変化の大きさにとまどっています。The locals are astounding in change.世界中の富裕層が訪れてくれます。Wealthy people from all over the world visit.彼らが求めるサービスには、それを裏付ける教養も求められます。The services they seek also require the culture to support them.地元の人たちが、この求めに答えようとしたときに、教会やキリスト教が、注目されるのではないかと期待しています。We expect that churches and Christianity will be noticed when locals try to answer this request.

12月8日「旧約における神の言葉」

香港の民主化デモが天安門事件(1989年)の再現とならないかとやきもきしながら過ごしています。I’m spending time hoping that the democratization demonstration in Hong Kong will be a reproduction of the Tiananmen incident (1989)そのような中、香港区議会選挙で民主派が圧勝したとのニュースを見ました。In such a situation, I saw news that democrats had won the Hong Kong parliamentary elections.You Tubeからの情報ですが、習近平が、中国国内の批判的な声を粛正しすぎて、客観的な状勢を語る者がいなくなったといわれています。Information from the You Tube, but Xí Jìnpíng, too enforcement the critical voice of China, it is said that those who talk about the objective Josei is gone.その結果、中央政府に忖度した意見ばかりになって選挙の動向を読み誤ったのだろうといわれています。As a result, it has been said that they may have read the election trends incorrectly, leaving only the opinions that were based on the central government.中国政府はメンツをつぶしてしまいました。これで天安門の再来が少しは遠のいたのかと一安心です。The Chinese government has crushed honor. I am relieved that the return of Tiananmen was a little far away.  本日の旧約テキストは、イスラエル南北両王国が対外戦争を始めようとしていました。In today’s Old Testament text, the Israeli North and South Kingdoms are about to begin a foreign war.国中の預言者を集めたところ、ほぼ全員が王に忖度して戦勝を予測しています。After gathering prophets from all over the country, almost everyone predicts victory against the king.反対意見をあえて探したところ預言者ミカヤが呼ばれることになりました。The prophet Micaiah was called when he dared to find his opposition.神に従う(忖度しない)預言者ミカヤは、自国の滅亡を預言してしまいました。というお話しです。The prophet Micaiah who obeys (does not guess a man) God has prophesied the destruction of his country. It is a story.  預言者たちの言葉は、批判的なものが多く、耳に痛いものです。逆に聞き心地の良い話しは偽預言者のものです。The words of the prophets are often critical and painful to the ears. Conversely, pleasant stories are those of false prophets.御言葉に耳を傾けるのは、聞く側の主体性が求められます。しっかりと聞き従いましょう。Listening to the word requires the initiative of the listener. Listen carefully. 

12月15日「先駆者」

 今年は、天皇の代替わりということで様々な行事が執り行われています。私は、ニュースを見ながら、旧約聖書に記される古代中東の「王の即位式」と比べていました。特に先日行われた「祝賀御列の儀」にて天皇陵陛下の乗られるオープンカーの直前に誰の車が来るのか注目していました。安倍首相、と管官房長官でした。この二人の立ち位置、役割が本日の主題、王の到来を告げる「先駆者」を表すものです。  当事者は否定するかもしれませんが、宗教学的な見地からすると、天皇=王、首相=先駆けという構図が読み解けます。  王制という制度や、権限、役割は種々の立場からいろいろ意見はあるのでしょう。イエスを「主」と呼び(奴隷制)「King of kings」(王の中の王、皇帝)と呼ぶのが私たちの習いです。穏やかに受けとめたいと思います。  王であるイエスさまには「きっと先駆けがいたはずだ」と当時を振り返ると、バプテスマのヨハネという先輩がいました。後にユダヤ当局に目を付けられて首をはねられるという不名誉も、十字架刑の先輩です。水による洗礼も、キリスト教に引き継がれます。神学的にも評価できます。種々、充分な働きをしていることから「先駆者」と呼ぶことになったと思われます。  教会暦に戻ります。先駆者が現れたら、次にやってくるのは王様です。主の御降誕まであと僅かですよ。楽しみながら過ごしましょう。

12月1日「主の来臨の希望」

 アドヴェントを迎えました。降誕日の4週前から、主をお迎えする準備が始まります。この日から教会もクリスマスの飾り付けが始まります。本日与えられた主題は「主の来臨の希望」です。 主とは神さまを指します。キリスト教では神さまを主と仰ぐのが基本です。来臨は「来る」を丁寧に言い表したものです。ですから、神さまがやってくるので希望をもちましょうという意味となります。アドヴェントの第1週は毎年この主題が語られます。ところで、イエスさまは2,000年前に来られました。そのことから来臨に二通りの意味が派生します。一つは「2,000年前の待ち望むという気分を楽しみましょう」ともう一つは「主の再臨(この世の終わり)に希望を持ちましょう」の二つです。前者は判りやすいのですが後者は誤解を招きそうですね。 論理的に言い切ってしまいますが、「将来に希望を持つ」とは「現状に不満がある」ということと同義になります。それはどのような不満かといいますと、ヨハネ福音書の書かれた時代はローマ当局から迫害を受けていました、ローマの国教と認められた頃はゲルマン民族の襲撃を受けていました、もう少し時代が過ぎるとイスラムに追い詰められていました、宗教改革の時代はクリスチャン同士がお互いに、近代に入ると、帝国主義、独裁制、共産主義、etcといろいろな聞きの時代が続きました、常に不満がありました。今現在は、信仰の自由が保障され迫害はなくなりました、しかし世俗主義(神さまがいなくても平気という考え方)に教会が押しやられていると言えそうです。  教会は「いつも希望を持ちましょう」と語り続けてきました。これは「きっと、いつの世にも不満をお持ちの方はいらしゃるでしょう」という意味です。もちろんその不満の解消は、平和的にと勧めています。暴力的な改革革命は勧められていません。ゆっくりと、時間をかけて変わっていきましょうと語ってきました。 クリスマスが近づいています。やはり神さまはいるのです。その神さまは私たちを見て、友だちになりたいと願いました。万能でありながら不器用な神さまは、その独り子をこの世界に送ってくださいました。しかもそれは赤ん坊の姿で(なんて不用心!!)。どうしてこれがうまくいったのかは永遠の謎です。だからこその希望なのです。神さまのお働きに思いを寄せて過ごしましょう。