12月1日「主の来臨の希望」

 アドヴェントを迎えました。降誕日の4週前から、主をお迎えする準備が始まります。この日から教会もクリスマスの飾り付けが始まります。本日与えられた主題は「主の来臨の希望」です。 主とは神さまを指します。キリスト教では神さまを主と仰ぐのが基本です。来臨は「来る」を丁寧に言い表したものです。ですから、神さまがやってくるので希望をもちましょうという意味となります。アドヴェントの第1週は毎年この主題が語られます。ところで、イエスさまは2,000年前に来られました。そのことから来臨に二通りの意味が派生します。一つは「2,000年前の待ち望むという気分を楽しみましょう」ともう一つは「主の再臨(この世の終わり)に希望を持ちましょう」の二つです。前者は判りやすいのですが後者は誤解を招きそうですね。 論理的に言い切ってしまいますが、「将来に希望を持つ」とは「現状に不満がある」ということと同義になります。それはどのような不満かといいますと、ヨハネ福音書の書かれた時代はローマ当局から迫害を受けていました、ローマの国教と認められた頃はゲルマン民族の襲撃を受けていました、もう少し時代が過ぎるとイスラムに追い詰められていました、宗教改革の時代はクリスチャン同士がお互いに、近代に入ると、帝国主義、独裁制、共産主義、etcといろいろな聞きの時代が続きました、常に不満がありました。今現在は、信仰の自由が保障され迫害はなくなりました、しかし世俗主義(神さまがいなくても平気という考え方)に教会が押しやられていると言えそうです。  教会は「いつも希望を持ちましょう」と語り続けてきました。これは「きっと、いつの世にも不満をお持ちの方はいらしゃるでしょう」という意味です。もちろんその不満の解消は、平和的にと勧めています。暴力的な改革革命は勧められていません。ゆっくりと、時間をかけて変わっていきましょうと語ってきました。 クリスマスが近づいています。やはり神さまはいるのです。その神さまは私たちを見て、友だちになりたいと願いました。万能でありながら不器用な神さまは、その独り子をこの世界に送ってくださいました。しかもそれは赤ん坊の姿で(なんて不用心!!)。どうしてこれがうまくいったのかは永遠の謎です。だからこその希望なのです。神さまのお働きに思いを寄せて過ごしましょう。

11月29日「王の職務」

 クリスマスは新しい王の到来をも意味している。聖書では、キリストの十字架の罪状書きには、「ユダヤ人の王」と記されている。ヘンデルの名曲は「king of kings」と歌い上げている。毎年、「王」について考えることになっている。一般人がイメージしている、おとぎ話の王様ではなかなか理解がたどり着かない。少なくとも、古代中近東の王、中世ヨーロッパの王、近世の立憲君主制の「王」、新憲法下の「天皇」を意識しながら、民衆がどのように受け入れてきたのかを考察する必要があるだろう。そこまで詳しく語れないが、一般に、王の職務とは「食糧の確保」と「治安の維持」といわれている。もし王が専制的にふるい、それが度を超すと臣民が夜逃げしてしまうという構図は古今東西共通するようだ。満足に食えないと王といえどもギロチンにかけられてしまう(フランス革命)。日本では早くから(鎌倉時代)から、王の職務はまつりごと(祭り事)に限定され、実際の政治は武家や官僚が担ってきた。これはとても優れたシステムで、天下を揺るがせる政変が起きても(明治維新等)権力を有するものが交代するだけで、「クニ」としての権威は保たれる。国の民は一つのよりどころに集まることができた。国家安泰の礎となってきた。世界中の王家からも、国民に選ばれた王(大統領)からも、暴力で勝ち得た王からも尊敬を受けている。 今年は天皇家の代替わりで、多くの儀式やお披露目が行われているが、その一つに大嘗祭が行われた。大嘗祭とは、王の職務のうち「食糧の確保」を目指すもので、一代で一度だけの大きな行事である。そして私が気になったのはその手段である。日本の天皇家は「祈り」をもって食糧の確保を目指し、それが国民に広く受け入れられていることである。  うろ覚えの世界史を紐解けば、人類は、穀物が栽培されて初めて余剰食物を手に入れることができた。およそ、紀元前6,000年頃といわれている。そして、この時から貧富の差が生まれ、権力者が余剰食物を独占し支配の根拠とした。この権力者が「食糧の確保」する手段は、武力による強奪や他地域の占領というイメージを持ってしまっていた。祈りが主とは習わなかった。  ところが、落ち着いて考えてみれば、余剰食物は、まず祭司を生み出したのではないだろうか。なぜなら、大規模農業となるので、多くの人をまとめなければならない。それは「暴力による収奪」よりも「祈りによる分配」のほうが耕作には向いているようだ。「天皇」が権力から離れているのは、ある種の必然と思える。この国においてはそうだったのだろうと思えてしまう。詳細な議論はできないが、平和な世界を思ってしまう。そこは、神さまの恵みが満ちた地で、キリストの隣人愛を実践するだけで、すべての人が満ち足りて幸せに過ごせるところだろう。  次週からアドベントです。御子の到来を待ち望みましょう。   

11月22日「救いの約束(モーセ)」

 本日の主題は「救いの約束(モーセ)」です。創世記に登場する族長はアブラハム、イサク、ヤコブと続きます。ヤコブの子どもヨセフが紆余曲折の末エジプトの宰相として一族をエジプトに招き入れます。そこから数世代を経て、ヨセフのことを知らないエジプトの王ファラオがイスラエルの民を迫害します。アブラハムに救いの約束をした神さまが昔の約束を果たすために選んだのがモーセです。ですから、神さまが救いの約束を交わしたのはアブラハムです。その約束が果たされたのがモーセという筋書きになっています。  出エジプト記を丁寧に読むと、3章で神さまはご自身をモーセに対して自己紹介しています。神学的にこの自己開示は興味深い(I am who I amなど)ところもあります。しかし、お話の筋としてはモーセを始めイスラエルの全部族は神さまの存在自体を忘れていたので、神さまが苛つきながら自己紹介をしなければならなくなり、内心ほくそ笑んでしまいます。  信仰的な指導として、「神さまは約束を必ず守ってくださる。」とお勧めするべきところですが、不信心な私は「全部族が忘れた頃にやってこられても‥」と、ついつい思ってしまいます。 もっとも、現実のイスラエルの民が国を失ったのが紀元90年でした。再建したのが1948年です。ですから、神さまの時間を人間の物差しで測ってはいけない。ということも踏まえて理解するところでしょう。  とにかく神様は約束を守ってくださる。たとえそれが、なんだかなと思える時間単位であってもです。さらに、信教の自由が守られ、私たちが迫害を受けることがなくなったのは、ほんの200年ほどに満たないことでしかありません。絶望的な時期をキリスト教は何度も何度も乗り越えてきました。必ず救いは来る。その約束は守られてきた。だから私たちは安心できるのだと、改めて思いを深めましょう。 

11月10日「神の民の選び(アブラハム)」

 アブラハムは「信仰の人」と呼ばれています。伝統的にとても立派な人と言われてきました。とにもかくにも、神さまの命令に従う人でした。神さまが旅に出ろといえば、一族を連れて旅立ちます。神さまが子孫繁栄を約束したら、素直に待ちます。やっと得た一人息子を犠牲に差し出せといわれたらその通りにします。(さすがに、この件は直前に神さまからstopが掛かりました。後日談ですが、どうもこの件以来息子のイサクは父との同居を拒んだようです。)それはさておき結果としてアブラハムは神から義と認められました。(旧約テキスト)  だから私たちも、神様の命に従い神さまに選んでいただきましょう。この人の立派な信仰に倣いましょうというのがユダヤ教の伝統です。ですが、それはひたすら盲目的に神さまを信じるべきだという教えに発展しました。後の信仰義認の根拠とされました。(新約テキスト)もっともアブラハムが活躍したのは律法付与の以前なのでそれはそうなのでしょう。  主イエスこそ神の御子であり神そのものだという立場をとるヨハネ福音書では、神の命に従うべきだから、イエスの言葉に従うべきだと主張しています。もちろん、イエスさまを人間だと思っている当時のユダヤ人には受け入れられません。  今日的に、信仰義認という考え方は、律法(明文法)に拘束されないという意味で、自由な活力があると評価されます。一方、信仰のみの主張は、文面がありませんので根拠が不明瞭となり混乱するかもしれません。悪霊の言葉と見分けが付かないという皮肉な意見もあります。ですので、どちらが一方が正しいということではなく一長一短を踏まえて、ひとつひとつ判断を積み重ねていくものだと思われます。言い替えれば、規則やルールはあるけれども、話し合い最後は会議で決定する、ということです。民主主義の基本ですね。もちろん日本は法治国家でもありますので、法に定められたことを気にくわないからといって蒸し返してはいけません。法は遵守しましょう。ルール無視もありえません。その上に、自由に意見を述べて活力のある社会を目指しましょう。

11月3日「堕落」

 教会暦の主題は、「創造」の次に「堕落」が来ます。キリスト教的には人間は生まれながらにして罪人ですから、創造以来間髪を入れずに堕落してしまうのでしょう。  旧約のテキストは、楽園追放の物語が選ばれています。神さまから食べてはいけないといわれた「知恵の実」を食べたアダムとイブがエデンの園から追い出される話しです。悲劇として解されること多いのですが、物語としてとても面白いものです。人間の成長発達から独立へと向かう物語という読み方もできます。(だから面白おかしく読める。)神さまの庇護の元にあったのに、神と同じく成ろうとして知恵を求め、知恵を手に入れると自立が求められるという人生そのものを現しているようです。神は自律を促しています。その証拠に送り出すときには衣服(文化)という祝福が与えられるという読み方です。  もっと素直な読み方をすれば、神さまから「どうして木の実を食べたのか」と問われたときに、素直に「ごめんなさい」が言えたら、こんなことにならなかったのに‥。  等々、いろいろな思いがします。もしかしたら原罪とは人間らしさを意味する言葉かもしれません。だとしたら、厳格に悩むよりも、大らかなおつきあいをしていく方が今日的だと思えます。  

10月27日「創造」

 自然科学の基本法則に質量保存則があります。これは絶対的なもので、「無から有は生じない」とされます。自然科学を前提とした牧師である私はこのように折り合いを付けてきました。質量保存則は神さまが作られた規則です。だから、神さまだけに無から有をつくる業(天地創造)ができます。被造物には無から有の業は許されていません。 ところが現代貨幣理論(MMT)によると、銀行と国家は現金を生み出す(創造する)ことができるそうです。この理論は、話の筋(合理性)という意味では正しく思えます。しかし心情的に納得がいかないという側面も持っています。まあ、貸し方借り方双方に数字が発生するのですから、質量保存則的に問題なしといえばそうなのでしょうけれども、その感覚になじみがありません。負の質量を持つ物質が未だに発見されていないからでしょう。物理の世界では反物質は理論的にはあります。時空を超える(ワープ)宇宙船に使われるそうですが空想科学小説の域です。理屈に矛盾はないのですが、心情的に同意しきれません。  MMT学者によると、長期デフレで不景気な日本では、大量の国債を発行して、安定的に景気を底上げする必要があると訴えます。特に公共投資(治山事業や福祉関連の人件費)を長期的に安定して発注して、早急に景気を底支えすることが必要とのことでした。国債増発による債務不履行(デフォルト)は心配いらないそうです。  かといって、土木業者の不正や、不透明な原発事業の歴史を知るだけに、無節操な国債増発に不安が残ります。立場としては、幼児教育や公共の福祉に関しては財源に悩まず投資をして欲しいと思います。  もしかしたら、自分自身がもう新しい考え方について行けなくなっているのかも知れません。難しいものですね。

10月20日「天国に市民権を持つもの」

 新約聖書の中で「市民権」といえば、ローマ帝国市民権を指します。伝道者パウロがローマ市民権所有者であり、ローマ帝国内を自由に往来して宣教したことは有名な話しです。ローマ市民権を持つものが、強盗にでも襲われた時は、「ローマ人を攻撃するものはローマ帝国を攻撃したと認められる」としてローマ軍が襲いかかり犯人をやっつけていました。ローマ世界ではローマ市民権所有者は国家によって守られた存在であった。ここから類推すると、「天国に市民権を持つもの」は、「いつでも何処でも神さまに守られているもの」を意味し、必ずしもローマ市民権を持っていなくても大丈夫ということを意味したと想像される。(古代社会において)さらに、必ずしもローマ市民権を持っていなくても、という条件は、奴隷や属国民など「すべての民」を内包しています。これはとてもラッキーというものでしょう。  ところが、聖書のテキストはちょっと厳しい。士師記ではせっかく集まった兵士達に、様々な条件を加えて数を減らしている。(天国に入るのは難しそう)ヘブライ書ではイスラエルの歴史的な偉人の苦労話が続き、その人達よりあなたたちが幸せといっています。(苦労話が悲惨すぎて…)ルカ福音書では与えられた資本を10倍にして返さないといけないみたいだし(そんな商売が一体どこに?)という厳しいばかりのお話しです。 こんな厳しい条件を付けられたら、守ってもらえないのじゃないかと心配になります。 ということで、この世での苦労は絶えません。でも、安心してください。皆さんもれなく天国(来世)は保障されていますよ。ということになるのでしょうか。  この話にあまり興味のわかないあなたは、現代に生きる人です。経済が豊かになり、この世での苦労が減っています。この世に満足する人は、来世への期待は薄くなるということでしょうね。

10月13日「金持ちと貧者」

 近年は、金持ちの実体が変わってしまったようだ。世界のグローバリズム化が進み、特定の人への富の集中は天文学的な数字になってしまった。私が子どもの頃、お金持ちとは「運転手付きの自動車」に乗っている人だったが、最近は自家用ジェット機に乗る人となり、日本のIT長者に至っては月ロケットを予約している。巨万の富が貯め込まれているより使ってもらった方が景気が良くなりそうで、冷めた拍手を送ろうと思う。ここまでくれば貧富の差も広がりすぎて嫉妬する気も起きそうにない。そして、悲しいことだが、これらの人達の努力を認めて尊敬し、子どもたちのお手本として指し示す気持ちも起きない。  一方貧者の定義も難しい。かつては欠食児童という言葉があったが、今や死語となった。今では年収360万円以下の世帯が給食費の無償化の対象となっている。これを貧しいとはいいにくい。むしろ、住所が不定や、外国人など住民票がなく福祉の対象から漏れている人たちなどが、社会から黙殺されることが心配である。  もはや、金持ちと貧者の所得を比較して、所得の再分配という概念は意味を持たないのかもしれない。  これからは、相対ではなく絶対的な貧困層を見出し強力な助け手をさしのべるべきだろう。(社会を安定させるため)さらに絶対多数の人たち(相対的貧困層)に広く富を分配し、消費を促すことが求められるのだろう。(景気を刺激して安定したインフレ率を保つため)  特定の大金持ち達がお金を貯め込むのなら、それに負けないだけのお金を印刷して、相対的な価値を減らしてしまう方が近道のようだ。イエスさまの時代とはマクロ経済が変わってしまったということだろう。 悩ましいものだ。

10月6日「世の富」

 私たちキリスト者は、神さまの元に「恵」があり、これを礼拝や信仰生活を通して分けていただき、みんなで分け合って生きている。この恵は不思議な性格を持ち、私たちが必要とするものに形を変わってくれます。例えば、食べ物であったり、衣服であったり、場合によってはお金にもなります。だから、恵を大切にしなさい。一方、ここで言われる「世の富」とは恵からの生成物にすぎません。こころを惑わされてはいけません。本当に大切な恵を見失ってはいけませんという教えです。  ここで取り上げられているのが、ルカ書の「不正な管理人」の喩えです。不正を働いた管理人が更に不正を働いて仲間を増やす、これが主人にほめられるという話しです。「???」というのが正直な印象です。  できるだけ整合性のある私なりの解釈を試みました。主人=神、管理人=祭司、借りのある者=一般庶民とします。主人の持つ財産は「恵」で総量は無限にあります。庶民が借りているのは「罪」です。(神さまの方を向かずによそ見をしたということ)管理人にしても借りのある者にしても罪人です。代価を支払う能力はありません。主人である神に贖ってもらうだけです。管理人と借りのある者は互いに不正を働いて借財を減らします。つまり互いに許し合って神に贖ってもらっているのです。  赦しの本質は神さまにあるのですが、管理人と借りのある者のやり取りを見て「まあいいか」と苦笑いをする主人の姿が、神さまらしくていいですね。  私たちは互いに赦されていることを確認しながら、共に歩んでまいりましょう。

9月29日「新しい人間」

 教会の説教で「新しい人間」といわれると、これからの自分はどんなことをしなければならないのか、更なる負担に意気消沈してしまいます。多分、今までさんざん「お説教」を聞かされて育ったせいでしょう。  ところで、キリスト教で「新しい」といえば、キリスト(西暦0年)以降です。つまり、2,000年前からずっと新しいのです。ですから、いまさら追加で「~しなければ」ということは何もありません。ご安心ください。ただ、その2,000年前に新しくなったことが何かを毎年確認することを聖書日課は勧めています。  古いとされるのは、律法に明示された「やってはいけない」こと集が、新しく愛の宗教と呼ばれる「してあげたいな」へと変更がなされました。もう一つ言って良いなら、神さまとのおつきあいが神殿経由の間接的なものから、「アッパ父よ」と呼びかけられる直接的なものに変わりました。 放蕩息子が赦されるお話しがあります。赦されるのは弟です。都市部では皆さん納得して聞いてくださいます。ところが長男が先祖伝来のお墓と田んぼを守ることが義務のような地域・地方では、ものすごい反発を受けました。なにせ弟に渡した半分の財産を作るのに兄も苦労しているからでした。要するに、「大都会で自由に過ごして、つらくなったからといって、帰ってこられても食い扶持なんてないよ」ということです。とても容認できないというのが本音でしょう。 限られた財産を分配して浪費する。これは赦されるはずのないことです。ところが、限りのない財産だったらどうでしょう。無限は神さまの属性で、神さまの元にはいくらでも恵があります。どれだけ弟が浪費をしても、無限の恵は減りません。だから兄は安心して弟を赦しましょう。というお話しです。もちろん、だからといって、安心して再び放蕩を繰り返すのは無しですよ。こころから悔い改めるのですよ。というお話しです。 主イエスの十字架によって、私たちはすでに赦されたのだから、私たちも許し合いましょう。無くすものはありません。なぜなら神さまから無限の恵みが与えられるのだから。 ということです。心情的にはついて行きにくいかも知れません。それでも,神さまが仰るのですからね。