8月4日「女性の働き」

 女性の働きという主題のもとで選ばれたテキストは、旧約聖書からラハブのお話しです。彼女は主への信仰を語っているようにみせながら、自分が所属する社会(エリコの要塞)を裏切っている。しかし、同時に家族の安全を求めている。というより、家族の安全を求める余り、主の側に付くことを選んだ。この視点からすると、福音書も使徒書も、家族を守るために主の味方になることを選んだ(と推測される)女性の名前が挙げられている。それぞでの連れ合いである男性(主が反体制とするなら、彼らの多くは体制側である) の所得を献金している。 家族を守る女性といえば、第一に母を思い出す。大正7年の生まれで、戦中戦後のたいへんな時期に、たくさんの家族を養った人物だった。筆者が幼い頃、身のまわりは高度経済成長期で何もかもが良くなっていくのに、その恩恵が我が家に回ってこなかった。(ほんの少し貧しい加減だった)いわゆる子どものわがままで、あれが欲しい、これが欲しいと言ったものだった。このわがままに対する母の答えは「自分はひもじい思いをしながら大きくなった。おまえにはそんな思いを一度もさせたことがない」というものだった。自分が受けた境遇よりも、おまえにはより良い境遇を与えている、ということだった。さすがに「仰るとおりです」としか答えようがなかった。  あらゆる統計を見ても戦後の70年間ですべてが良くなっている。人類発祥以来、終戦当時まで平均寿命は50年であり、あまり変動していない。「自分が受けたよりもより良い境遇を」という母(女性)の働きは結実している。日本の社会全体もその方向性を持っている。  私たちもこれに習いたい、できるならば主の教えに従って、次の世代のものたちすべてに、より良い境遇を残したい。

7月28日「キリストの心」

 キリストは、全人類の罪を一身に担い、十字架にかかられその罪を精算されました。ですから、キリストの心は、全人類が自らの罪が赦されたことを感謝して、互いに許し合うところにあると思われます。  ところが人間の性として、福音書に登場するファリサイ派のように、他者と自分を比較して、より罪深い他者を批判する者がいます。もしくは、自分は何ひとつ悪いことをしていないと主張する者もいます。しかしながら、人間の罪は深く、完全なる神との比較においては、その両者とも50歩100歩に過ぎません。  もっとも、性善説の日本文化の中では、受け入れられがたい教義であることも事実でしょう。そこで、礼拝ではひたすら感謝の祈りが捧げられます。根源的な罪に関してはほぼスルーされるのが現実ではないでしょうか。  なかなか難しい問題を抱えていることは否めませんが、あまりこだわってはいられません。何事によらず日々感謝の念を持って過ごすことが大切なことだと伝えています。  人間が日々営むわけだから、何かしらの不満はあるでしょう、そこを起点に向上心を持つことも良い結果を生むものです。ただ、時と場所を定めて、週に一回は礼拝を守る中で、感謝の念を新にすることはとてもお勧めです。

7月21日「生命の回復」

 私たちは、生命を神様からいただいたもの、神さまは意思を持ち、命を与えて取り去る、という教義を受け入れている。ところが、現実の社会では、生物学的な死は不可逆であるとされている。とりあえず、この矛盾に答えるところから、話を始めたい。  神さまは全知全能である。故に、生き返らせることができる。聖書の記述はそのことを示している。もっとも神さまにはできるが、人にはできないことである。人に生命のやり取りは不可能です。というスタンスをとりたい。この教義の大切なところは、生命を人の自由にしてはいけない、というところにある。キリスト教価値観では、総べて生きとし生けるものは、神から生命が与えられている。それはとても尊いもので、おのおのが尊重される。一つの帰結が自死の禁止であり、その他生命倫理の根幹を規定する。  時として幼児は「自分なんかいなくなれば良い」という類いの、表現をすることがある。このようなことを冗談にも口にしてはいけないことを説得するためにも、この教義は有効である。  また、生物学的な死以外にも、社会的な死、精神的な死等々分析的に捉える必要がいわれている。エレミヤはその一例だろう。  定年退職も、ある種の社会的な死かも知れない。教会はこういう方々にも開かれた存在であり、活用してもらいたい。  近年は、自己肯定感の希薄な青年が多く、就業が継続できない一因とも思われる。実力不足を努力で補う以前に、限界と考えてしまう。指導力不足を反省するが、無力感もおぼえる。神さまに与えられた生命を大切にする、と伝えていきたい。

7月14日「すべての人に対する教会の働き」

 ユダヤ教は元来民俗宗教だった。これが普遍宗教となった。ここでいう「すべての人」とは、異民族(ユダヤ教から見て)が救いに至ることを記念する日である。日本人である私たちからすると、自分たちも救いに入れてもらった想起する日ということになる。ほとんど意識してこなかったために、違和感を憶えるが重要な出来事である。  旧約聖書は、ルツ記が選ばれている。モアブの女ルツは、イスラエルの神ヤハウエの加護を受け将来的にはダビデの家系の祖となる。しかしこのときはルツの家族への愛が認められている。  福音書の物語では、重い皮膚病の異邦人10名が癒やされる。感謝を伝えに来たのは1名だけだった。  このたとえは考えさせられることが多い。私たちもまた異邦人である。神さまの愛は普遍性を持つから、実は全人類が救いに入れられている。私たちには、この一人のように神の愛を知り、感じ、感謝の礼拝を献げている自覚がある。改めていうが、先ほどの残りの9名は特にペナルティはない。私たちもまた、ひたすら自ら感謝の礼拝を献げるのみで、そうではない人たちのことは、気づいてくれるのを願い続けるだけである。何らの感情も不要と思われる。感謝の念を持ってすごしたい。 

7月7日説教「個人に対する教会の働き」

 迷い出た1匹の羊を探すために99匹を野原において出かける羊飼いのたとえである。このお話しは「弱者保護」という概念で、社会一般に理解されている。  ところが、現実的なに運用を考えると、残された99匹はどうなるのかという問いが浮かび上がってくる。神学部の学生には思考実験として良い課題だろう。但し、残された99匹の安全は確保されているものとする。羊飼いの留守中にオオカミに襲われることはない。さて、具体的菜問題を考えてみる。1匹を探すために放置された99匹がどのように判断をするのだろうか。  その答えは、99匹の受けとめ方による。最悪の場合は自分の権利が阻害されたというクレームに結びつくだろう。もっともである。  実際に、幼稚園で発達の遅れた子どもを引き受ける時は悩まされる。先生のエネルギーがそこに偏ってしまうからだ。それでも教室の運営次第で、遅れた子どもの幸せを子どもたち全体の幸せに結びつけることができる。自分たちも赦される(みんなの協力の下で)のだからとても安心し、他者に対して優しくなれるのだ。これはキリスト教保育の長所である。  もっとも現実の社会ともなると、理想道理には行かないかも知れない。それでもこの世界が神さまの愛に満ちあふれていると伝え信じることで、少しでも良い社会に近づけたいと願う。

6月30日説教「キリストを信任する教会」

 G20が開催されている。1976年にG7が始まり、BRICsが加わり、G20となった。FACTFULNESSと重ねて読むと、腑に落ちるところがあった。例えば人口10億人の中国がレベル2からレベル3になる。1日の消費が4ドルから8ドルに上がるのだ。すると1日あたり40億ドルの現金が必要になる。かつて基軸通貨が金本位制であったが、とてもこの短期間に40億ドル分の金属の金塊が産出されるはずがない。ドルショック等々の通貨危機とは、この現金の不足を基軸通貨の信用で補う作業だったようだ。世界的な視座がないために私たちは混乱させられた。  要するに、新興国の発展に必要な現金が不足した。大国の基軸通貨が信用を用いてその現金を発行した。日本は財政赤字を理由にその責任を果たそうとしなかった。結果デフレ(通貨不足)となった。  G20とは、信用を調整する隣人愛に基づいた話し合いなのだ。必要なことだと思う。とにかく定期的に顔を見せて、話し合うのは価値のあることだ。  キリストの唱えた隣人愛は世界人類を救っている。  「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と神が仰ったので、人は複数になった。  地球規模の働きかけは私たち個人にはとても及ばないところだが、できるところから勧めていきたい。そして、いつかはきっと良くなると、希望を持ち続けたい。

6月23日説教「教会の一致と交わり」

 教会の使信が確定した。これを広げる中で「教会の一致と交わり」が作られてきた。  旧約聖書はナタン預言である。外敵を平らげ、宮殿の造営を終えたダビデは引き続き神殿の造営を企画する。ところがそれは神の知るところとなり、預言者ナタンに御言葉が託されてダビデへと伝えられた。種々の解釈があり得るが、「戦争と造営で民が疲弊している。神殿は次の世代まで延期しなさい」という合理的な考えがにじみ出ている。  使徒言行録では、教会の使信に多くの人が入信し、すべての財産を持ち寄って再分配した(らうまくいった?)様子が描かれている。共産主義国家が失敗し、民主主義(資本主義)が唯一の選択肢のようにいわれたが、少子化を克服した国々は、(世界一の高等教育を前提とした)民主主義のもとで、社会主義的(高い税率と高い福祉)に限られているようだ。  福音書は、神さまのもとには有り余る食料がありにもかかわらず、招かれた客は来ない。すべての人を招くようにとの命が下されている。この様子が地球規模で広がったのがFACT FULNESSから見える世界に思う。  古代の王達が民衆から求められたのは、治安の維持と食糧の確保である。世界中の為政者がこの一点に集中すれば、必要な食料は足りているはずです。合理的な判断は本当に難しいものです。  

6月16日説教「教会の使信」

 使徒言行録には、福音書記者ルカのイエス理解が示されている。そこでは、ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方と紹介している。「ナザレのイエス」が実在していたことがうかがえる。ただしイエスを十字架に駆けたのはユダヤ人と断罪し、ローマ当局には言及していない。会堂追放を受け、ユダヤ教には戻れないという思いとこれから宣教を進めていかなければならないローマへの配慮がうかがえる。  教会の使信として私たちはナザレ人イエスが神の御子であることを伝えていかなければならない。それは主の下された宣教命令に則って行われるものだ。ただし、宣教命令がなされてこの2,000年間も必ずしも順調とは言いがたかった。本日のテキストは、一番最初に宣教のために働いた人たちが、困難な状況の中で、いろいろな思いや配慮をしていたことが読み解ける。私たちも参考にしたい。  とはいいながらも、飽くことも諦めることも赦されてはいない。めざましい成果を求めることなく地道に宣教を進めていくだけだ。「FACT FULNESS」という本を読んだ。地球規模の統計を見ると、貧困、人口、教育、エネルギー等の問題は著しい改善傾向にあるという、神の国は日々実現しつつあると喜ぶべきだろう。

6月9日説教「聖霊の賜物」

 過日、北海道で砂嵐が発生し、自動車が多重衝突する事故が起きた。時期的に、畑が整地され、しばらく雨も降らず、たまたま風が強かったための現象だったのだろう。それほど強風ということも無かったが事故につながった。そこで、乾燥地帯のエルサレムで「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」ならば、現地の人間は一体どれほどびっくりしたこと思わされた。そのせいで、隠れ引きこもっていた使徒達が、一斉に宣教の業にいそしみ始めたのだ。私たちはついつい視覚的な「炎のような舌」の記述に目を奪われるが、使徒達を突き動かした聖霊さまの力に注目したい。  昨今、中高年の引きこもりがたいへんな事件を引き起こしたり、引きこもる我が子が事件を起こすのではないかと恐れて親が無謀な行動に出たりと悲惨な事件が続いている。私たちに、具体的な対応策もなく思いあぐねてしまう。   ただ言えることは、使徒達が聖霊さまの力によって引きこもりを脱したことはとてもとても健全なことだった。その時はとても大きな力が働いたことだろう、と思える。 私たちの年代は、自己実現とか自己開示等々、「自分は一体何者であるのか」という問いに悩みながら青年期を過ごした記憶がある。その時に「私は、天地の造り主主を信じるものだ」というヨナの信仰告白に支えられた記憶がある。他にもたくさんの信仰告白がある。近年になって、それらのすべてが肯定の文だと気づいた。聖霊さまに促されていると思った。信仰は生きる力だとあらためて思った。

6月2日説教「キリストの昇天」

 使徒信条に記されているキリスト論は以下の通りである。

 主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオピラトのもとで苦しみを受け、十字架に付けられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人の内からよみがえり、天にのぼられました。

 この世界観では、イエスは天より降り、この世での生活を終え、よみに下り、復活を遂げ(この際、よみにいる全員を救ったとされる)、地上の役割を終え天に昇り神さまの右に座っておいでだそうだ。

 つまり、キリストは天上界、地上界、よみと三つの世界を自由に行き来できる。すべての世界の支配者である、と語られており、私たちはそれを信じている、もしくは無意識かも知れないが公言してしまっている。そんなつもりは無かったと言う方のために、付け加えておくが、もちろんこれは人の思弁が構築した世界観であり、物理的(観測可能)な世界とは異なる。重ねていうが世界観(哲学)なので堂々と主張して良いことだ。

 あらためて、教会の暦に「キリストの昇天」が暦に刻まれていることはとても大切なことと思える。このキリストの教えに従い、私たちは地上での生活を送っている。私たちは善行を積み天上界を目指しかつ隣人愛を行ってきた。これはとても良いことです。だから、これからも継続して信仰生活に励みましょう。