4月10日「十字架への道」

棕櫚の主日です。イエスさまがエルサレムに入場しました。舞台が対決の場に移ったことを示しています。この日民衆は、道に上着や棕櫚の葉を敷きイエスさまを迎えます。これに答えるようにイエスさまは子ロバに乗って道を進まれました。実はこの場面は旧約聖書の「王の入城」を模した姿になります。とりようによってはイエスさまが王を名乗り,民衆がそれを受け入れたということになります。 当時のユダヤはローマの属国であり、個人が自由に王を名乗ることは、ユダヤ当局、ローマ帝国双方に対する謀反と解されます。死刑相当の犯罪です。事実十字架刑はローマに対する政治犯の処刑方法でした。 結局、数日後にイエスさまは、民衆の賛意の元に十字架に赴かれます。本日熱狂的にイエスさまを受け入れた民衆が、数日後に、イエスさまを十字架につけろと叫んだと聖書は記しています。この移ろいやすさに、人間の罪の深さを見るのが、受難節の私たちの過ごし方かもしれません。 エルサレム入城から、復活までの一週間を福音書は大量の文書で綴っています。宮きよめから、ユダヤ教主流派との対決。洗足の木曜日等々ドラマが続きます。できれば目を通して主と共に歩むことをお勧め致します。

4月3日「十字架の勝利」

 イエスさまは十字架刑に処せられました。これはローマ帝国の法に則った裁きです。さらに、その罪状書きには「ユダヤ人の王」と記されたとあります。つまり、ローマ帝国に逆らった政治犯という扱いになります。もちろんこれはとても不名誉なことです。 その後、復活の主が表れ、神の御子だと理解されるにつれ、十字架の意味が変わってきました。十字架上のみ苦しみが全人類の罪の贖うためのものだったのです。政治犯としての不名誉が全人類の救済へとその意味が全く異なるところへと、大転換を遂げました。 ここら当たりが「十字架上の勝利」の意味となります。 改めて見直したところ、意味内容の飛躍があまりにも甚だしくて、論旨の展開についてはいけない感はあります。だからでしょうか、十字架については神学的な意味「罪」ばかり語られるようです。 現実的な政治犯としての十字架刑から信仰的な全人類の救済へと、何をどうすれば変わり得たのか、学術的な興味はつきないところですが、神さまが直接に入れ知恵したのでしょう。 そこはともかく、全く罪のない人が十字架にかけられるのですから、誤解もあったでしょう。受難の記事でイエスさまが追い込まれる姿には、人間のドロドロした部分が描かれています。丁寧に聖書を読むと、なるほどと思わされます。

3月27日「主の変容」

 福音書の書かれた目的は「イエスはキリストである」ことをその読者に伝えることです。イエスさまは完全な人間であり、同時に完全な神さまでもあります。今日のテキストは、山の頂上(神の領域)で、神さまの部分があふれ出てきた、と思われる場面です。  山の頂で、白雲が湧き起こり、衣服が真っ白に輝く場面は、モーセの十戒付与の場面を彷彿とさせます。モーセとエリヤが同時に現れることで、律法と預言というユダヤ教の二本柱でイエスの神性を補強しています。なぜわかったのかとか顔を知っていたのかとは、聴いてはいけません。西洋絵画の世界ではそれぞれに石版と巻物をもたせて見分けるようになっています。  その場に居合わせたペトロさんのあたふたさ加減もユーモラスに神さまらしさを演出しています。 イエスさまの内なる神性が光輝いたわけですが、私たち人間も、光輝く神性を内在しています。 創世記では人はチリで作られ、神の息が吹き込まれています。パウロの人間観も土の器に宝が隠されているといっています。イエスの神性に目を奪われるだけでなく、私たちの内にある秘められた、神聖なものを大切にすることも大切です。これらのことは、文明や宗教にかかわらず認められている、といっても言いすぎではありません。 人間というものは、確かに何かと問題をもっているのですが、基本的には良い存在であり、輝く力を持っているものです。尊いものです。 今日現在、ウクライナとロシアの戦闘行為が続いています。たくさんの命が失われています。本来だったら、輝いているはずの命が失われていくことに、大きな痛みを覚えます。一刻も早く、戦闘が終結し、平和が訪れますように祈ります。

3月20日「受難の予告」

 福音書の書かれた目的は「イエスはキリストである」ことを読者に伝えることです。聖書箇所を見ると「受難の予告」の直前にペトロは信仰告白をしています。この時点で、「あなたはメシアです」と正解にたどり着いています。この後、予告があり、受難があり、復活があり、宣教命令へと続いていきます。こうして伝えられたメッセージはやはり「イエスはキリストである」と同じ内容になってしまいます。つまり何度も何度も同じ内容が繰り返されているのです。 そこまでしなくても、ペトロの信仰告白で、記述を終えてもいいのではないかという人もいるかもしれません。これに対して、予告も現実の受難も、すべてやはり必要だったと私は考えます。  たとえば、小学校の「さんすう」を思い出します。義務教育である以上、社会人のほとんどがそこで出される問題を解くことができます。しかし、大半の人は小学生に教えることはできません。実は、小学校の「さんすう」はその後、中学・高校で学ぶ「数学」の基礎・土台に相当します。 そして、高校の「数学」で「物理」「化学」に求められる基礎が完成します。大言壮語すると高校の「数学」「物理」「化学」を理解できれば、その瞬間にすべてが一つの系統であり、すべてが大切なものであり、その一部が「さんすう」だったと後から気付かされるようになっています。大切なことは何度も繰り返して学習します。そしてしっかりと積み重ねて体系を作ります。  福音書の目的が「イエスがキリストである」ということを確信を持って人に伝える(教える)ことにあります。そのために、福音書のすべての要素が必要で、全体を一つの体系として身につけることが大切だと強く思います。 時折、「そんなことは知っている」「何度も聞いた」という声を聞きます。みなさんはそのようなことを思ってはいけません。主のみ苦しみを想起しながら過ごしてまいりましょう。

3月13日「悪と戦うキリスト」

 ロシアのウクライナ侵攻(2月22日)が始まって以来、ウクライナの大統領が「自由の戦士」でプーチンが「悪の代表」のような印象がマスコミにあふれています。もちろん、ロシアの行為を容認するものではありません。それでも善悪二元論で割り切ることの危険は覚えておきたいと思います。 本日の主題は「悪と戦うキリスト」です。では、このテキストでイエスさまは何と戦っているのか確認したいとおもいます。まず、群衆です。彼らが押し寄せたおかげで、弟子たちは食事をする暇もありませんでした。今風にいうと弟子団がブラック企業になってしまっています。次に、身内の者たちが、押しかけてきました。「(イエスの)気が変になっている」といわれたからです。さらに、エルサレムから降ってきた律法学者たちが「悪霊の力で…」とのうわさを流しています。 まあ、いわゆる四面楚歌状態でどちらを向いても敵だらけといえます。もちろんそれぞれにそれなりの動機があるので、一方的な批判はできないと思われる。 この日イエスさまは彼らを呼び寄せて(律法学者たちの誹謗中傷に)弁明したことになっています。 彼らとは、律法学者と思われてきたが、私には弟子たちを説得しようとしたと思えてなりません。弟子たちの心が折れないように、論理的な反論と励ましを与えているようです。 ウクライナでは、一般市民に銃を配り反撃しようとしているようだ。正規兵でないものに武器を配るのはこれは国際法違反だろうと思う。その指摘がなされるとき、ウクライナもロシアも「これは(正式な)戦争ではない」と言い張ることだろう。 そうは言っても、ウクライナ市民は自分たちの財産を守る必要はある。奥さんと子どもたちをポーランドに預けてなのだ。同情を禁じ得ない。

3月6日「荒れ野の誘惑」

 教会の暦が降誕節から受難節へと変わります。イエスさまの日常から十字架へと場面が変わります。大変な苦しみを受けられるのですが、最初に受けられた試練をここで復習しましょうという文脈のようです。「荒れ野の誘惑」といえば、悪魔が登場して三つの試みが行われると多くの人が理解されています。しかし福音書によって記述が異なり、本日のテキスト「マルコ」はもっとも短い記述となっています。 マルコによると、霊がイエスを荒れ野に送り出しています。つまり神さまの導きで誘惑を受けています。そしてサタンから誘惑を受けています。サタンとはヨブ記に登場した神さまの天使です。神さまの教えを守るヨブに苦難を与えたらヨブの信仰が揺らぐと神さまに諫言しました。ヨブを直接苦しめたのはサタンなので、イエスさまもさぞやヨブ並みに苦しまれたことだろうと思われます。その間、野獣が一緒にいてイエスさまは危険にさらされていましたが、天使たちが仕えて、支えていたとしるされます。きっと、野獣に迫られているイエスさまを、上から「がんばれ」と励ましていたことでしょう。  マルコの文脈からすると、イエスさまがヨハネから洗礼を受けたときに、霊がイエスさまに降ったとあります。これによってイエスさまは神の力を宿す存在となりました。天地を創造する素晴らしい力です。しかしこの力を、人間の欲望のままに使うことは、神さまの御旨から離れてしまう行為です。欲望に動かされないでコントロールするだけの心が養われていないと、使命が全うされません。そのためのトレーニングが荒野の誘惑と思われます。大きな力を託される者は、目的や使い方を見失わない強い心が必要なのです。 受難節は、主のみ苦しみを憶えて過ごすときとされています。人によっては、何かしらの我慢をすることで、主に倣おうとする人もいます。確かに社会で働くには何かしらのトレーニングは必要だとは思います。が、主の祈りにあるとおり「わたしたちを試みに合わせないで悪しき者からお救い下さい」と素直に祈ることも赦されています。

2月27日「奇跡を行うキリスト」

 イエスさまのお働きを学んでいます。今回は「奇跡を行うキリスト」です。福音書からは嵐を鎮める場面が選ばれています。旧約聖書からはヨナ書1章も読まれます。こちらは神さまが嵐に命じる場面です。神さまが(地中海の)天候に命令すると、そのとおりになるようだ。そしてイエスさまも(ガリラヤ湖の)嵐を命令に従わせることができる。どちらも天候を従わせるのだから、イエス=神だと読者の理解がいたることが期待されている。私たちも素直に受け止めたい。 古代社会では、奇跡=不思議な力=神さまが働いたというふうに一般に認識されていたようです。だから、主題としては成立する。が、果たして現代人に説得力があるのかと思ってしまう。 少し思考実験をしてみました。「奇跡なんて馬鹿馬鹿しい、とても信じられない」「信じて欲しければ、今ここでやって見せろ」という言葉はあちらこちらで飛び交っているように思えます。私自身はこの意見に対して永らく疑問を感じていました。変人扱いをされるのが嫌で、口にはしませんでしたが……。 大変めんどくさいことですが、奇跡を定義してみます。たぶん「ありえないこと」になるのでしょう。この「ありえない」が「私たちの常識からしてありえない」のか「科学的な法則からしてありえない」のかは前者の方が圧倒的に多いということです。「科学的に考えられない」と仰る方々の科学的リテラシーは決して高くはありません。なぜなら科学的リテラシーの高い人は、「科学的にあり得ない」事柄に出会っ事実は受け入れて事実は受け入れて「科学的に解明」しようとするからです。むやみに「科学的にあり得ない」という人は事実を受け入れない傾向にあるようです。 ここでいうところの「科学的」とは再現性があるとか確立しているということです。再現性があるということは,何時どこで誰がやっても同じ結果が得られるということです。だから、理系科目には実験実習が大切なのです。 ここで、聖書を振り返ってみると神さまの技とされる奇跡は再現性が(あまり?)ありません。モーセがエジプトで魔術師たちとの対決で行った奇跡は再現性に?はつきます。それでも最大級の奇跡「復活」にはありません。 一方、理系科目の実験実習をどれほど繰り返しても理系科目の苦手は治りません。私の仮説ですが、そこには「信じる」というキーワードがあるのではないでしょうか。奇跡は信じるものです。科学法則は受け入れるものです。信じる必要はありません。この区別が結構曖昧なまま来ているようですね。奇跡=神さまだけになし得ること=物理法則からの逸脱、と考えてみましょう。すると、一回だけの不思議なできごとがおきたらそれを奇跡といいます。聖書の中でイエスさまは再々「徴を見せて欲しい」と要求されますが、そんなことはめったにできることではありません。一回キリの手品のネタを無数に持たなければいけなくなるからです。これは要求そのものが矛盾をはらんでいます。 全く逆転の発想ですが、物理法則が、全宇宙の至る所で安定して観察されることこそが、世界を安定させる神のみ技(秩序の維持)と考えた方がよりよい気がします。

2月20日「いやすキリスト」

イエスさまの地上でのお働き学ぶ期間です。今週は「いやす」というお働きが選ばれました。まずは、現代の医学とどれほどかけ離れていたのか確認をしていきます。 近代医学は、1840年代に麻酔法が確立。それまでの外科手術は痛みをコントロールすることができず、頭を殴って脳しんとうを起こし目覚めるまでに手術を終えるという恐ろしいものでした。麻酔のおかげで患者の痛みを気にせずに患部を切除することができるようになりました。ところが外科手術はできたのに死亡率は高どまりでした。消毒法を知らずに感染症患者を死に至らしめた結果でした。 最初に発見された消毒法(酒石酸による)が絶大な効果を上げたのが1860年代でした。しかし医学界から無視をされました。原因と結果の相関関係はあったものの、原因となる細菌が発見されるまでは無視されたのでした。1870年代になって細菌が目視されて、消毒法が見直されたという歴史は抑えておきたい。 つまり、1800年代に入るまでの外科治療は、イエスさまの時代と同じ医学水準でした。 これを言い換えれば、文字通り「病は気から」の時代であり、病源に対する有効な手段を誰も持ってはいなかったことを示している。イエスさまほど権威も信頼もある人が、励ましただけでも、きっとよく効いたことと思われる。(プラシボー効果) 永らく、病気の原因は、罪に対する罰だと認識されていた。患者本人にすれば、病の苦しさに加えて、覚えのない罪に問われてしまい、社会的にも苦しめられた。→コロナ感染者に対する差別は今日もある。  イエスは患者の気持ちを前向きにして、かつ社会復帰への道を開こうとしている。「罪からの許し」の表現が両者への働きかけを意味している。この点は高く評価するべきだろう。 ちなみに医学の祖とされるヒポクラテスと同時代であり、同水準のイエスさまの行いは、もっと認められても良いと思います。

1月23日「宣教の開始」

 舞台はカファルナウムである。カファルナウムはガリラヤ湖北端にある町で、地中海世界と中東・エジプトの交点に当たる町だ。気候は温暖で緑も多く、人も物も交流の賑やかなところである。イエスさまの活動が評価されガリラヤの春とうたわれたところでもある。「会堂の跡だろう」と呼ばれる石造りの土台と壁が巡礼の名所とされている。昼食はガリラヤ湖で採れた魚をフライにしたものが供される。「ピーターズフィッシュ」という料理で、ガイドの説明によると、時折、ローマ時代のデナリオン銀貨が胃袋から出てくるそうだ。 当時、イエスさまはラビ(教師)として扱われていた。安息日にシナゴーグで聖書の説き証しが求められていた。 他のラビたちは権威のないものとして(自分は神ではないの意味)語るが、イエスさまは権威ある者として(まるで自分が神であるかのように)語るので周りの者が驚いていた。 そこに汚れた霊に取り憑かれた者がやってきて「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と叫んだ。イエスが命じると汚れた霊が出ていった。 このことから、イエスさまには汚れた霊を従わせる権威があることと、霊の世界では「神の聖者」と認められていることが読者には理解できる。 しかし、一般の民衆にとってそれらを素直に認めることは困難で、驚き途惑うばかりであった。 「宣教の開始」に当たって「時は満ちた…」ではなくて、悪霊追放の物語が選ばれている。読解の難しい宣教の言葉より、病のいやし(=悪霊追放)の方が、力強くインパクトがあったのだろう。当時の人たちには説得力があったのだろう。 この日のイエスさまの行為は、権威ある者として語る=涜神罪、安息日の悪霊追放は安息日律法違反と危険な行為を犯している。ここではまだ問題視されていない。 後に問題視されていることも考え合わせると、緊張感を含んだ宣教の始まりといえる。今の私たちにはとてもできそうもないチャレンジだ。

1月16日「最初の弟子たち」

 教会の暦は、イエスさまの宣教活動の最初に弟子を召し出したことを語るように勧めている。 皆さんがご存じのように、イエスさまは十字架にかかり死に復活して昇天された。復活のキリストに出会い、昇天する姿を見送ってナザレのイエスが実はキリストだった神さまだったと認識してから信仰が生まれた。つまり、キリスト教会を作ったのは全て弟子たちの力である。だからこそ弟子の召命記事は重要である。 同時に教会に集う私たちも、神さまに召し出されて礼拝に出席している。そしてめぐみを得て、感謝を献げる。つまりキリストの弟子なのだ。だから宣教のはじめに召し出されたのだ。これからのイエスさまのお働きを、弟子の目で見て後を追うことが求められている。 新約聖書の記述は、「ヨハネが捕らえられた後」で書き始められている。イエスさまがバプテスマのヨハネの後継者という位置づけである(同時にヨハネが先駆者となる。)。そしてイエスの宣教の言葉「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」が記されている。まごうことなき福音の宣言である。この活動が始まった途端に、ガリラヤ湖畔にて、シモンとアンデレ、ヤコブとその兄弟ヨハネを弟子として召し出している。 よく言われることだが、この四人が「貧しい漁師」とか「学問に疎い」といわれるのは失礼というものだ。「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に船に残し」と記されているので少なくとも勢子(雇い人)ではなく、父ゼベダイが網元でその跡継ぎたちと理解できる。資産家であり、後を継ぐべく教養を身につけていると想像できる。小樽から岩内にかけてニシン御殿が点在するが、これに類する存在だと思われる。 もちろん政治にも興味を持つほどの好奇心もあれば、イエスの活動も事前に耳に入っていたことだろう。更に言えば、イエスの十字架の後で、ペトロ(今の時点でシモン)は、再び漁をを行っていることから、出奔や勘当ではなく、実家の了解の上での行動と思われる。 それでも、この四人にとっては将来を変える大決断である。「魚を捕る漁師」から「人を捕る漁師」へと大きな変化を遂げている。 イエスの召しの強烈なメッセージを憶える出来事だ。