6月30日説教「キリストを信任する教会」

 G20が開催されている。1976年にG7が始まり、BRICsが加わり、G20となった。FACTFULNESSと重ねて読むと、腑に落ちるところがあった。例えば人口10億人の中国がレベル2からレベル3になる。1日の消費が4ドルから8ドルに上がるのだ。すると1日あたり40億ドルの現金が必要になる。かつて基軸通貨が金本位制であったが、とてもこの短期間に40億ドル分の金属の金塊が産出されるはずがない。ドルショック等々の通貨危機とは、この現金の不足を基軸通貨の信用で補う作業だったようだ。世界的な視座がないために私たちは混乱させられた。  要するに、新興国の発展に必要な現金が不足した。大国の基軸通貨が信用を用いてその現金を発行した。日本は財政赤字を理由にその責任を果たそうとしなかった。結果デフレ(通貨不足)となった。  G20とは、信用を調整する隣人愛に基づいた話し合いなのだ。必要なことだと思う。とにかく定期的に顔を見せて、話し合うのは価値のあることだ。  キリストの唱えた隣人愛は世界人類を救っている。  「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と神が仰ったので、人は複数になった。  地球規模の働きかけは私たち個人にはとても及ばないところだが、できるところから勧めていきたい。そして、いつかはきっと良くなると、希望を持ち続けたい。

6月23日説教「教会の一致と交わり」

 教会の使信が確定した。これを広げる中で「教会の一致と交わり」が作られてきた。  旧約聖書はナタン預言である。外敵を平らげ、宮殿の造営を終えたダビデは引き続き神殿の造営を企画する。ところがそれは神の知るところとなり、預言者ナタンに御言葉が託されてダビデへと伝えられた。種々の解釈があり得るが、「戦争と造営で民が疲弊している。神殿は次の世代まで延期しなさい」という合理的な考えがにじみ出ている。  使徒言行録では、教会の使信に多くの人が入信し、すべての財産を持ち寄って再分配した(らうまくいった?)様子が描かれている。共産主義国家が失敗し、民主主義(資本主義)が唯一の選択肢のようにいわれたが、少子化を克服した国々は、(世界一の高等教育を前提とした)民主主義のもとで、社会主義的(高い税率と高い福祉)に限られているようだ。  福音書は、神さまのもとには有り余る食料がありにもかかわらず、招かれた客は来ない。すべての人を招くようにとの命が下されている。この様子が地球規模で広がったのがFACT FULNESSから見える世界に思う。  古代の王達が民衆から求められたのは、治安の維持と食糧の確保である。世界中の為政者がこの一点に集中すれば、必要な食料は足りているはずです。合理的な判断は本当に難しいものです。  

6月16日説教「教会の使信」

 使徒言行録には、福音書記者ルカのイエス理解が示されている。そこでは、ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方と紹介している。「ナザレのイエス」が実在していたことがうかがえる。ただしイエスを十字架に駆けたのはユダヤ人と断罪し、ローマ当局には言及していない。会堂追放を受け、ユダヤ教には戻れないという思いとこれから宣教を進めていかなければならないローマへの配慮がうかがえる。  教会の使信として私たちはナザレ人イエスが神の御子であることを伝えていかなければならない。それは主の下された宣教命令に則って行われるものだ。ただし、宣教命令がなされてこの2,000年間も必ずしも順調とは言いがたかった。本日のテキストは、一番最初に宣教のために働いた人たちが、困難な状況の中で、いろいろな思いや配慮をしていたことが読み解ける。私たちも参考にしたい。  とはいいながらも、飽くことも諦めることも赦されてはいない。めざましい成果を求めることなく地道に宣教を進めていくだけだ。「FACT FULNESS」という本を読んだ。地球規模の統計を見ると、貧困、人口、教育、エネルギー等の問題は著しい改善傾向にあるという、神の国は日々実現しつつあると喜ぶべきだろう。

6月9日説教「聖霊の賜物」

 過日、北海道で砂嵐が発生し、自動車が多重衝突する事故が起きた。時期的に、畑が整地され、しばらく雨も降らず、たまたま風が強かったための現象だったのだろう。それほど強風ということも無かったが事故につながった。そこで、乾燥地帯のエルサレムで「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」ならば、現地の人間は一体どれほどびっくりしたこと思わされた。そのせいで、隠れ引きこもっていた使徒達が、一斉に宣教の業にいそしみ始めたのだ。私たちはついつい視覚的な「炎のような舌」の記述に目を奪われるが、使徒達を突き動かした聖霊さまの力に注目したい。  昨今、中高年の引きこもりがたいへんな事件を引き起こしたり、引きこもる我が子が事件を起こすのではないかと恐れて親が無謀な行動に出たりと悲惨な事件が続いている。私たちに、具体的な対応策もなく思いあぐねてしまう。   ただ言えることは、使徒達が聖霊さまの力によって引きこもりを脱したことはとてもとても健全なことだった。その時はとても大きな力が働いたことだろう、と思える。 私たちの年代は、自己実現とか自己開示等々、「自分は一体何者であるのか」という問いに悩みながら青年期を過ごした記憶がある。その時に「私は、天地の造り主主を信じるものだ」というヨナの信仰告白に支えられた記憶がある。他にもたくさんの信仰告白がある。近年になって、それらのすべてが肯定の文だと気づいた。聖霊さまに促されていると思った。信仰は生きる力だとあらためて思った。

6月2日説教「キリストの昇天」

 使徒信条に記されているキリスト論は以下の通りである。

 主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオピラトのもとで苦しみを受け、十字架に付けられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人の内からよみがえり、天にのぼられました。

 この世界観では、イエスは天より降り、この世での生活を終え、よみに下り、復活を遂げ(この際、よみにいる全員を救ったとされる)、地上の役割を終え天に昇り神さまの右に座っておいでだそうだ。

 つまり、キリストは天上界、地上界、よみと三つの世界を自由に行き来できる。すべての世界の支配者である、と語られており、私たちはそれを信じている、もしくは無意識かも知れないが公言してしまっている。そんなつもりは無かったと言う方のために、付け加えておくが、もちろんこれは人の思弁が構築した世界観であり、物理的(観測可能)な世界とは異なる。重ねていうが世界観(哲学)なので堂々と主張して良いことだ。

 あらためて、教会の暦に「キリストの昇天」が暦に刻まれていることはとても大切なことと思える。このキリストの教えに従い、私たちは地上での生活を送っている。私たちは善行を積み天上界を目指しかつ隣人愛を行ってきた。これはとても良いことです。だから、これからも継続して信仰生活に励みましょう。 

5月29日の説教「信仰に報いる主」

 「信仰義認」はプロテスタントの基本的な原理です。ローマカトリックの「行為義認」に反対する用語です。何に反対したかというと「行為(献金)で義認(天国行き)」はおかしいという主張でした。とはいいながらも、行為義認そのものは、ゲルマン民族に布教する際に、「嘘をついてはいけません」等々を伝えるため、間違って嘘をついてしまった人々を、赦すために何らかの修行を課した(主の祈りを100回唱える等)が始まりでした。時代的には必要だったと思えます。しかし、行き過ぎてしまい宗教改革者から全否定を受けました。そうはいいながらも、人は信仰に基づいて良い行いをするものであり、それは勧められるものです。 福音書に登場する百人隊長の行いが褒められています。当時から敬虔な!!ユダヤ人の生活態度をすがすがしく憶え応援する異邦人も一定数以上いたと伝えられています。この隊長もその一人のようです。  当時のローマ兵は、市民であり気力も充実していました。そんな人達を100人もまとめ命を預かるぐらいの人物です。社会的な地位はずいぶんと高かったようです。その地位の高い人が、部下を思いやり、主イエスに対してへりくだっています。その姿に信仰が認めら神の力が発動しました。隣人を愛し、神を愛する姿の実例といえるのでしょう。  神さまは生きて働かれる方です。御利益を期待したり、努力不足を棚に上げることは赦されません。それでも、日々奇跡は起きています。隊長の心の置き方は見習いたいものです。

5月19日の説教「神の子の自由」

 新約聖書は、民俗宗教としてのユダヤ教から、普遍宗教のキリスト教が生み出される過程で記されています。ですから、母体としてのユダヤ教並びにこれから布教して行くであろうローマ帝国に対して、多少なりとも批判的な立場をとっていると思われます。そこで「神の子の自由」という主題から察するに、母体であるユダヤ教の律法主義からの自由(こちらは色濃く描かれる)、と軍事力に裏付けられた法治国家を標榜するローマ社会からの自由(債務奴隷や父権制社会故の女性や子どもなどの弱者、最初期の宣教の対象)と二重の意味で理解することができる。  要するに、単純に律法主義の否定ととると、法治の否定を伴い、国家に対する反逆は言い過ぎにしても、法治以前の無法社会に舞い戻ってしまう可能性もあるということです。  複雑に聞こえるが、我が国の明治維新政府が、欧米列国から憲法もない無法状態の国には、関税自主権は認められない。とされていたものを、憲法を制定し、日清日露戦争において正しく国際法を遵守して、認められてきたという歴史を無視して考えてはいけないと思う。 世界史としては法の無い地中海世界に、法治国家としてローマ帝国が作られたこと。旧約聖書的には法の無い遅れた民族と揶揄されていたイスラエルの民が十戒の付与で一人前扱いされたことを忘れてはいけないということです。 図式化してみると、無法→法による支配→愛による支配と順序を正すことができると思われます。こういう視点に立てば、法律文書に縛られ厳密に執行するよりも、法の動機となった愛を活用することで、より一層の自由を求めていることが理解できる。  法に基づいて、他者を裁くのではなく、互いに愛し合うことでよりよい社会を築きましょうというメッセージとなる。 決して法をないがしろにすることは勧められていない。