3月7日「受難の予告」

 今日現在、日本国籍を有するものが,日本国内で日本国政府についてどのような批判をしようが、悪口を言おうがしかられる心配は不要です。それは、日本が自由と民主主義の国だからです。とはいっても、独裁制の国家だったり、口先だけで自由を標榜する国では、政権批判が許されない国も現実に存在します。ましてや、イエスさまの生きた時代、生きた場所では自由は限られたものでした。ローマ皇帝の批判は許されず、ユダヤ教を拒むことも許されませんでした。そのただ中にあって「人は私のことをどうゆぶのか?」とのイエスの問いも「生ける神の子です」との答えも、命がけの信仰告白を行ったことになります。 あくまでも私見ですが、この信仰告白の延長線上に、主の十字架があり、この克服としての復活は、まさしく神の力によってなされる業に思えてなりません。これを諫めたペトロさんが叱られるのですが、無理もありませんね。 イエスさまの周りには、憎いローマをやっつけてユダヤが独立し神聖政権をつくろう等の単純な考えの方が多かったみたいです。とにもかくにも「物騒な」状況下での問題発言でした。 伝統的に、この両名の発言は、いのちの危険を顧みずに神の御旨に従った英雄的行為とされてきた。 今日のキリスト教界では、この英雄的行為を褒め称えることに異存はないが、だからといって皆が後に続くようにとお勧めすることは決してしていません。殉教の連鎖拡大は留めておきたいというのが本心です。特に一般信徒においては、迫害下においては信仰を隠し密かに継承することが許されていました。殉教者より継承に重きを置いてきたのです。その向こうに見える十字架という受難は、神様の御子だから超えることができるのです。私たちはひたすらに神様に感謝をささげましょう。

2月28日「悪と戦うキリスト」

 イザヤ書は、その日(主の日)が来れば目の見えない人の目が見え耳の聞こえない人の耳が聞こえると預言している。福音書はイエスが目の見えない人の目が見え耳の聞こえない人の耳が聞こえるようにしたと語っている。本来でしたら、イエスの「いやし」を目撃した人は「主が働いた」と神を信じるようになる状況です。ところが、その場に居合わせたファリサイ派は「あれは悪霊の頭の力だ」と曲解している。そこでイエスはファリサイ派の人々に向かって弁明を行っている。  要するに、イエスが戦っている相手は、悪霊ではなく、曲解するファリサイ派ということになる。福音書では、ファリサイ派は主イエスの行いに対して無理解な人たちの代名詞でなっている。(もっとも、実在のファリサイ派とは別物で、気の毒な表現をされていると考えた方が良い。) この無理解な人たちは「目の見えない人の目が見え耳の聞こえない人の耳が聞こえた」事実は受け入れている。そして、それがなんの力かを問題にしている。目が見えて耳が聞こえるようになったことを喜ばない。祝福しようとしないとても不思議な印象を受ける。  この無理解な人たちに、イエスの力の源泉を理解させようと、多くのことばが語られるが何かむなしい。説得力を感じない。主エスが戦う相手は、悪霊そのものではなくて、無理解な人々のようだ。 この無理解が折り重なると十字架へと結びついていくのだろうか。繰り返したくないものだ。

2月21日「荒れ野の誘惑」

「人はパンだけで生きるものではない」とのセリフが有名な箇所です。福音書の文脈からすると、成人した主イエスがバプテスマを受けて神の霊を身体に宿しました。そして「神の国は近づいた」との宣教の始まりとの間に位置します。ですから、この箇所は神の力(奇跡を起こす)を正しく使うための修行に相当する部分です。一般に、スパイダーマン等のスーパーヒーローの物語には、超人的な力を手にした主人公がその力を制御する強い精神力を身につけるお話しが挿入されますが、その元話と思えるほどのところです。 修行の様子を見てみましょう。  第一の問答、空腹の中で石をパンに変えたら…、これは後に5,000人の供食の物語がありますので、神の力としては可能です。しかしそれを自分の空腹を満たすために使うのか隣人のために使うのかという問題です。奇跡の力は神の業を示すため(自分のためではない)に用いられました。そして、例え食物はなくとも御ことばのエネルギーに支えられていることを示しました。第二の問答、神殿の門から飛び降りたら…、神様は意思を持つ存在です。こちら側の意思で神様を動かすことはゆるされません。それは神様の主権を侵す行為、涜神罪に相当します。なにより、試みられるのは人間でも嫌ですね。第三の問答、悪魔が「もし、私を拝むのなら…」。唯一の神様なのでこんなのを拝むことはあり得ません。が、当時、世界中の栄耀栄華を手にした人物といえば、ローマ皇帝ティベリアヌスとなります。確かに皇帝崇拝を進めてキリスト教徒には脅威だったようです。にしてもあの時代の実力からするとよくもローマ皇帝と対立し批判する立場がとれたもので、あきれてしまいます。元気ですね。 もっとも、今日的な教訓として、私たちの身近にも地位や肩書きに頼って、上から目線で働きかける人を見ます。権威主義という誘惑です。これは本当に危険です。そのようなものに頼らずに自分自身の力で神の国を実現したいものですね。

2月14日「奇跡を起こすキリスト」

聖書の奇跡は本当なのか?とよく考えました。そこで聖書は奇跡をどのように理解しているのか(すなわち神様の創造のみ業の中身について)について丁寧に考えを述べたいと思います。 神様は天地を創造されました。その後、神様はこの世界を創りっぱなしで放置したのでしょうか。答えは否と思えます。神様はその創られた世界の安定を保ち、維持してきました。それは鉄壁で完璧な維持です。聖書はそれを世界の秩序cosmosだと理解していました。海の水面が一定なのは神様が押さえているからで、神様が手を抜くとたちまちに洪水になるという理屈です。これが惑星の運行が法則に基づくとの考えに発展して天文学となりました。全宇宙の森羅万象がたった一つの方程式で表現できるという考え方も、信仰告白の一種と思えてなりません。 ですから、神の定めた秩序を乱す(奇跡)は物理法則を打ち破ることとなり、そんなことができるのは神様自身しかいません。被造物には無理な話です。ですから、奇跡が起きるとそれは神様が働いたことをを証明することになります。イエスの奇跡は神の力を表すもので、その結果として神を信じる者が増えるのです。誰もまねはできません。もし、誰かがまねたなら、そこに示されたのは再現性であり、法則のあるところですから、近代科学になってしまいます。 私の個人的な見解に従うなら、太陽系の地球と反対側にある小惑星糸川の上で、はやぶさの運動が全くニュートン力学の通りであることを証明した時点で、全宇宙を統べる唯一の神様が働かれていること証明されたこととなり、私たちは神様を賛美するべきだと思うのです。 注意、ここでいう神は単一神で、キリスト者の信じる三位一体の神とは、微妙に異なります。かのアイザックニュートンは、この違いに悩んだそうですが、難しすぎるので説明は略します。

2月7日「いやすキリスト」

 キリストのいやしは、伝統的に奇跡(神の業)の一部と理解されてきた。近代医学が発達する中で、医学的にそぐわない表記が議論される時代もあった。今日は医学とは異なる次元で「いやし」に効果が認められる時代となった。さらには、イエス様が働かれた時代は、病気の原因として、本人の悪行(罪)や神に逆らうもの(悪霊)などが取り沙汰されてきました。当事者にとっては病本来の苦痛に加えて、社会的な負荷(差別など)がかけられていました。キリストの業(いやしの記事)には、病を治す以上に社会復帰への道筋までもがきちんと示されていたことが注目されています。 ところで現代はどうでしょうか。私のところにはこの一年に、コロナウイルスに関する文部科学省からの公式文書が多数届けられました(ウンザリするほど……)。そこには感染防止の具体的な指示と共に、「差別につながる言動を慎むように」との注意書きが、多数含まれていました。 病気で苦しむ方々に、その人たちの行為が悪いからと更なる苦痛を与える人間の姿は、2000年前からいかほども進歩をしていないことを改めて知りました。 私たちには今日の疫学的知識があります。新型コロナウイルスに感染するにしても、また発症するにしても、どれほど用心してもある程度の確率で0にはならないことを知識として知ってはいます。感染した人が悪いとは言い切れないことを理解しています。しかしついつい人にその責任をなすりつけたくなる心の弱さもあります。 せめて、自分たちが差別の発信源になら内容には注意しましょう。社会が正常に戻るように努めましょう。

1月31日「教えるキリスト」

 先週、キリストの宣教が始まって、今週からそのお働きを学びます。教会暦では「教える」「いやす」「奇跡を行う」と学ぶことになっています。 神様(イエスさま)はいつまでもこの世にとどまってはいられない。十字架と復活までという時間制限があります。ですので、その時以降に、その教えを宣べ伝えるものが必要となります。だから何よりも先に、弟子を招聘し必要な事柄を教えたのでしょう。私たちもまた、教え伝えていくことの大切さを確認してまいりましょう。さて、「教える」から現代の「教育」というところに目を向けました。私たちクリスチャンには「子どもに残すのは教育と信仰」という考え方があります。この考え方はそれなりに説得力があります。大きなところで「(残すのは)お金ではない」という意味があります。確かに最近の経済理論によると、通貨発行権のある政府は無制限に発効できるそうです。とにかく、通貨はどんどん増やされるので、その価値は絶対的ではありません(相対的に価値は下がる)。だから頼るにしても限度を見極める必要があります。さらに「教育」そのものに注目しましょう。今日の高度に複雑化した社会に適応するために高い教育は必要だといわれます。かつて「読み書きそろばん」いわれていましたが、今日は「バイリンガルな読み書きとエクセル」とのぐらい変化してきています。日本の教育は「識字率が高くレベルが高い」というのも思い込みにすぎなくなってきました。開発途上国(普通教育が行き届いていない)と思われる国でも女子の60%が、男子ではもっと高い比率で初等教育(読み書きそろばん)を終了しているのがファクトです。先進国にとって脅威となるべき追い上げが現実となっています。これに対応するために日本では、幼児教育と高校教育が無償になりました。9年間の義務教育が15年に延長されています。この状況を理解して、子どもたちに十分な実力を付けてあげるのが私たちの責務です。主の働き「教える」ということの重要性は時代と共に増し加わっているといえます。  主イエスの活動のうち「教える」が真っ先にあげられるのはそれが最も重要なのだからでしょう。改めて自らの役割(幼児教育)を考えさせられました。

1月24日「宣教の開始」

 教会暦は降誕節のままですが、宣教の開始以降に語られる内容は、実際の活動を示しリアリティーのあるお話しとなります。 最初に語られた宣教のことば「悔い改めよ。天の国は近づいた」は、福音書によって少し表現は変わるが、主イエスの基本的で最も大切なメッセージだといえます。 その内容を深掘りしてみましょう。まず、「悔い改めよ」です。ヘブライ語の「罪」は「的を外す」という意味です。ですから、そこから戻ることが「悔い改めよ」に相当します。ですので「向きを正す」ぐらいの意味となります。要するに、心を正しく神様の方に向けなさい、ということになります。続けます。「天の国」は神様が支配する理想の国です。それが近づいたのです。あとは、いつ到着するのかが問題となります。明日来るのか、しばらく先なのか、ずっと先なのか、それとも私たちが何とかして今の世界に働きかけて、「天の国」を呼び込むのか、で私たちの過ごし方が変わってきそうです。 結論から言いますと、「天の国」がやってくるのはしばらく先なので落ち着いて生活をしなさい。そして、ただ待つのではなくて、「天の国」を先取りして、この世界に神様の理想が具体化するように働きかけましょう。というぐらいで落ち着いています。 もし最初期のクリスチャンのように「天の国」が明日来るとしたなら、それこそ「終末」がすぐにやってくるわけで、この世に何を働きかけても無駄に思えてしまいます。つまり投げやりになるのではないでしょうか。極端な意見として、キリスト教の一派に「天の国」を無理矢理呼び込むために、核戦争を起こそうという物騒な話になってしまいます。せっかく神様が人類に対して期待しながら忍耐して下さっているのに、自分たちの力で「終末」を作り出そうというのです。これこそ人の傲慢と思えてなりません。天地創造の折に、「産めよ増えよ」と地上を人間に託し、今まで忍耐強く見守って下さった神様です。私たちはその期待に応えるための努力が求められています。神様の理想を目指して努めて参りましょう。

1月17日「最初の弟子たち」

 教会暦に従って、説教を進めています。ところが「最初の弟子たち」の方が「宣教の開始」に先立つ順序になっています。これはきっと、宣教の業を伝える(弟子の役割)の方が重視されているからだと思えます。選ばれる旧約テキストも使徒書もことばが腹に苦いことを強調しており、厳しい役割が弟子に期待されていると思わされる。確かに宣教の業の担い手は、使徒であり弟子たちであり、今日の私たちがその自覚を持って歩んでいくことが求められるようです。  本日登場した弟子たちについてもいろいろと理解が深まってきました。新約聖書では漁師として紹介されていますが、いわゆる労働者としての「勢子」ではなく、資本家としての「網元」のように思えてしかたありません。父を捨てて従ったとは記されているものの、主の十字架の後に、漁に出ています。船を所有する側だったと思えます。ある程度以上のインテリであればこそ当時の政治情勢に不満を憶えて政治運動に参加したと考えます。 そうすると信仰に篤く、理想を追い求める青年像が浮かび上がってきます。だからこそ、命がけで主の「神の国」運動に身を投じてしまったのでしょう。 もちろん事前に様々な情報を得ていたことでしょう。だからこそ初対面とはいえ、主イエスの方向性を理解していたのでしょう。そこに声をかけられたので、機会到来とばかりに、主に同行したのであろう。とまあ、少し読み込みすぎかもしれませんが、論理的には説得力があると思います。聖書を字句通りに解釈する人たちとはかけはなれてしまします。それでも、日常的に「知らないおじさんに付いていってはいけません」という立場(幼稚園園長)なので、許してください。

1月10日「イエスの洗礼」

イエスさまは実在の人物です。活動されていた頃は「ナザレのイエス」と呼ばれていました。イエスさまが亡くなられてから、「あれは神さまに違いない」という信仰が生まれます。では、「いつから神さまだったのか?」と議論された時代もありました。聖霊によって身ごもったからその時だ。という意見もありました。十字架上で神さまに変容した。というのもありました。公的な宣教活動をはじめるときから。というのが本日のお話しです。まあ、先週までの「クリスマス物語」から現実の宣教活動へとストーリーが転換していきます。 イエスさまが活動を始めるにあたり、先駆けとなったバプテスマのヨハネを訪れます。そして洗礼を受けました。「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」とマタイは記しています。 いろいろと思わされるのですがまず「天が開いた」時点で???となるのではないでしょうか。 当時は今で言う「宇宙空間」という概念がなく、大きなドームに覆われており、(ドームに星(恒星)が張り付いている)その向こう側が天上世界、神々の住まうところと考えられていました。つまり、「天が開いた」のは神さまの住む世界と私たちの住む世界がつながったということを意味します。そして「神の霊」が天上世界から送られ、イエスさまに宿りました。  ということで、特別な力を宿したイエスさまが、次週からその力を生かして,宣教の業に励まれます。お楽しみに。

1月3日「エジプト逃避」

 クリスマス物語では、省略されやすい部分です。ご存じない方のために話を要約すると、三人の学者が、わざわざ「新しい王はどこに生まれるのか?」と聞いて回ることで、ヘロデ大王は主イエスの誕生を知ることとなりました。その時点での王であるヘロデ大王にとってはライバルの登場となります。そこでヘロデ大王はいろいろと奸計を巡らし、イエスを亡き者としようと企みました。ヘロデの悪意を知った聖家族(ヨセフ、マリア、イエス)はエジプトに避難し、ヘロデの死まで隠れて住むこととなりました。イエスを見つけ出せなかったヘロデ大王はベツレヘムの二歳以下の男児全員を殺害させました。 神の御子は、暗黒の時代に生まれ、大変な危機が迫る中、夢のお告げと天使に守られて脱出を遂げた。と、人間のダークサイドが強調して描かれる物語です。 ヘロデ大王は実在の人物で、若い頃は善政を敷きましたが、晩年は猜疑心にとりつかれ、近親者を殺し続けたことで有名です。皇帝アウグストから「ヘロデの子どもに産まれるぐらいなら、豚に産まれた方がましだ」とまで、いわれています。(注:ユダヤ人は豚を食べないから、殺されないだろうという意味)  ところで、「エジプト逃避」のお話しは、聖書の他に外典儀典の形で多数残されています。更には当事者であるエジプト国民(コプト教会)では、巡礼路もあり、とても盛り上がっています。「おらが村にキリスト様が来られた」ということでしょう。史的にはともかく行ってみるととても楽しい旅になります。