8月14日「主に従う道」

 聖霊降臨節ですので、教会には主の教えを守ることが求められています。しかし、それはとても困難な道であることはかねてから指摘されていたとおりです。 明治維新政府はスローガンに「和魂洋才」を掲げていました。西洋の進んだ技術は学ぶが、心の置きようは日本文化を守るというものです。結局のところ、前近代的なありようが今日まで続いていると思われます。つまり、客観性や合理性は後回しで、情緒が優先されています。 それでも「言霊信仰(言葉として発したことが具現化する)」は福島第一原発の事故以来廃れたもようで、天災のシミュレーションは公開されるようになりました。以前は、「事故を起こしたらどうする?」と言葉化するだけで「本当に事故が起きそうだ」となり「そのような言葉は出さずにおこう」となったものです。予測すら許されませんでした。さらに、国防を考えるのに仮想敵国を設定することもダメでした。「本当の敵になってしまうから」です。まあ、「お前の母ちゃんでべそ」という呪いの言葉に類するものです。 またかつては、内と外を峻別して、身内の恥を決して漏らしませんでした。そのようなことも、最近は漏れ知られるうようになりました。SNSの普及により、あっという間に広がってしまいます。学校内のいじめが、かつては教育委員会箝口令で握りつぶせたものが、旭川女子中学生いじめ事件のように、手の内からあふれて社会問題にされています。 キリスト教には神様がいます。人によって受け止め方の程度は色々でしょうが絶対的な神様で、宇宙の秩序を守ってくださいます。変幻自在な日本ルールは公には通用しなくなりつつあります。以前より安心できる社会になりつつあるようです。 主の教えに従い、正直に生きてきたわたしには住みやすい時代となりました。 

8月7日「キリストの体」

 先週は、幼稚園を休園しました。2号処置児では、休園の基準がなく、かつ、誰にでも説明のできる客観的な理由を求められました。まず、倶知安町の感染率が1週間で0.8%に比べ、幼稚園関係者では40%を超える感染者となりました。内部で感染が広がっていると判断するのに十分な数値です。事業を一旦停止することが賢明と判断しました。子どもに接する大人の感染率を見ると60%を超えていました。 健康な保育者をこれ以上投入できない。子どもの感染者が増えると、家族全員に行動規制がかけられます。たとえ子どもの所帯が共働きであったとしても、健康なまま家に帰すことができれば、両親のどちらか一人だけが休めば良い。との理由にしました。 行政は、文字通り政を行うことだけをもとめるものです。しかし大原則として、法に網羅的なものはなく、必ず隙間がある。最終的には人間が判断するものです。民主主義の原理は、最大多数の最大公約数的な、幸福を追求するものです。共働き家庭に少々の迷惑を掛けても、被害を最小に留めることは許される。ということになります。 まあ、不特定多数の人たちを説得するのは大変で、レポートとして書類を提出しました。 特に、民主主義の原理については、難しいようですが、真です。そしてここまで突き詰めて考えると、聖書に通じることも理解できます。たしかに体は色々な部分から成り立ちますが、トータルとして一つです。というパウロの言葉の方がわかりやすいかもしれません。「保育に欠ける子ども」を預かる仕事ですが、個人として保育に欠けるという部分だけを見てはいけないのです。その向こうの家族や、保育をする先生たちも見なければいけません。そして、職場の長としての総合的な判断が求められます。 苦労しますね。

7月31日「神の完全な武器」

 少年ダビデと巨人ゴリアテの戦いが選ばれています。喩え小さく非力でも神の加護があれば……という文脈です。永らく喜ばれてきた物語です。ただ、私たちが天地創造の神の完全な武器というと、人類滅亡か核兵器かと考えが飛躍してしまいます。その大技は最後にとっておくとして、日常を過ごす私たちにとっての完全なお役立ちグッズとは何だろう。神様から与えられたタラント・才能とか長所ぐらいでも良いと思う。 聖書に登場する奇跡はもちろん神の御子のなせる業です。疑う余地はありません。それでも聖霊降臨以降は登場回数は減っています。基本時に神様の意思で発動するもので、私たちのお願いでは動いてくれません。一方「必要なものは既に与えられている」という信仰もあります。その当たりから、人には神様から与えられた賜物がある。それを生かして励むべき、という考えが生まれました。 当時のローマ社会からカルト扱いを受けていた頃は、ひたすら品行方正に努めて周囲(ローマ社会)に受け入れてもらえるように。奴隷身分のものは、主人をないがしろにしない等々穏やかな教えがたくさんあります。目立つことは弾圧を意味しますので仕方がありません。 

7月24日「神からの真理」

 たいへんな事件が起きました。安倍元総理が選挙の応援演説中に狙撃され死亡しました。犯人は、統一教会を攻撃しようとしていました。元総理はその関係者と認識されていたようです。犯人の母親は統一教会に入信し、多額の献金の結果、家族は崩壊、犯人は将来を潰されたことへの恨みの犯行でのようです。犯罪はだめです。しかし犯人に対しては「お気の毒」ですの気持ちが湧いてきます。カルトに染まった(洗脳された)人を説得することはできないからです。最近は法整備も進み、直接的な献金被害に対しては返金訴訟もできるようになりました。最も熱心に法整備を勧めたのが安倍総理ですから、とても皮肉な結果となりました。私たちには、「宗教は怖い」風評がたってしまい、宣教が難しくなりそうです。 本日の主題には、「真理」という言葉が入っています。言語は「エメス」真にで、「アーメン」の語源です。 神様へのお祈りの最後に「アーメン」と唱えるのは、「確かにその通り真です」ということになります。ユダヤ・キリスト教で「真理」とは、「神に属する尊いもの」ぐらいの意味で、現代の抽象概念とはやや異なる概念のようです。ただ、神様からいただくものですので、神様と私たちの間に、異なる教祖様が割り込んだり、私たちがみことばとする聖書以外に何らかの権威ある書物が登場すれば、それはカルトと断定できます。 正しい神様は家族をないがしろにして献金しろとはいいません。聖書に示される最大値は10分の1です。 神様に示された真理(聖書)に従って生きることが求まられます。踏み外すことのないように、注意しましょう。

7月17日「パン種に注意せよ」

 「パン種に注意せよ」とは、イエスさまの時代の慣用句です。当時は各家庭でパンを焼いていました。基本的には、小麦粉をこねて、パン種を加えて、発酵させ膨らませて、焼いていました。今日のようにイースト菌や酵母をスーパーマーケットで買うことができない時代です。各ご家庭で、小麦粉を発酵させた後に、少量をとりわけ、次回のパン焼きに備えて、パン種としていました。このパン種は、繰り返して使う内に、雑菌が入り込み、質が低下(パンがまずい)します。そこで、当時は年に一回、家中を大掃除して家庭内の「パン種」を取り除き、新しいパン種に更新していました。年中行事として除酵祭という期間を設けていました。 このことから、「ほんの少量だが、パンの味を大きく左右するもの」として「パン種に注意しなさい」という慣用句が生まれました。 イエスさまの活動は、政治運動とみなされ、当局からスパイが送り込まれていました。その人たちを指して「パン種に注意しなさい」という教えが述べられました。今日の私たちにとっては、カルト宗教(定義が難しい)が危険とされています。 キリスト教系のカルトを見分ける指標を紹介します。三位一体(神、イエス、聖霊)以外に、偉そうな人が登場したら、カルトと思って差し支えありません。これに加えて聖書以外の書物が登場したら、これもカルトです。 私たちは、三位一体の神を信じ、そのみことばとして聖書を受け入れている、正統なクリスチャンです。

7月10日「神の計画」

 旧約聖書のエステル記より、モルデカイの説得の言葉が選ばれています。内容の詳細は略しますが、私の目にはご都合主義で説得力に欠けた言い訳に思えてなりません。ここではこのような言い訳をあえて受け止め果敢に挑戦するエステルの姿が輝いて見えます。たぶん、「神の計画」は私たちの予想を超えて働くと言いたいのだろうか。エステル自身はかなり不幸な生い立ちといえます。早くに両親を亡くし、持って生まれた美貌を養父の出世に利用され、王に飽きられ、放置されているところに、全ユダヤ人の運命を背負って王と対峙するように求められています。 エステルの成功は極端な例として、私たちは自分の置かれた状況を、どのように理解すれば良いのだろうか。厳しい状況に置かれ、将来に希望をもつのにはどのような受け止め方があるのだろうか。 現代の人間として、すべてを偶然の産物と考える人がいる。これは虚無主義といって、努力する(人間らしい行為)意味がなくなってしまうだろう。偶然の次に来る極論が運命論でしょう。すべてが事前に定められているという考えです。実はこのあたりは、さまざまな議論に既に決着がついており、大まかな予測は立っても、不確定な要素が残されているとされています。客観的には、神様や悪魔が介入することを前提としてはいけません。しかしそれでも主観として、神様が自分を守ってくれる。愛してくれる。自分が社会にとって必要とされている。というふうに積極的に受け止めることが、精神衛生上とっても優れていると実感しています。

7月3日「宣教への派遣」

 伝道する教会から宣教のために人が派遣されていきます。聖書日課の最初に預言者アモスの自己紹介が選ばれました。そこには「いちじく桑を栽培する者だ。」とあります。この一節を取り上げて、アモスはお百姓さんで教育は受けていないという仮説を立て、宣教の業に学歴不問を唱える人もいます。ですが、これは、神様からの命(召命)が絶対に必要という意味です。現実に予言者も伝道者も人に話を聞いてもらう必要性から、それなりの教養なり学問はあるに超したことはありません。論理学では前者を必要条件と呼び後者を十分条件と呼びます。どのような場合であれ、神の命や信仰は必須ですが、長期間に安定した牧会を求めるならば、毎週説教を作れるだけの教養や勉強量はあった方がいい、といえます さて、今度は送り出す側の問題です。使徒言行録では、聖霊様に導かれたとされています。確かに聖霊様が目に見える形で表れて、「この人」と言ってくれたら楽です。しかし現実的ではありません。基本的には会議を開いて話し合いの内に決定されます。会議のはじめにみんなでお祈りをします。各自の内なる「神様から与えられた賜物」が発動して意見を交換します。その結果を聖霊様のお導きとします。大切なことは、内なる聖霊様の声を聞くことのです。各自の思いのまま利益を求めてはいけません。今日の民主主義も、この体裁の中で、「全体の利益」について発言するものです。 創世記で言われる「神の息」を与えられた者が、これを活性化して話し合う。その結果を神の御旨と信じて、必死に努力をして今日へと続いています。

6月26日 「悪霊追放」

 勧善懲悪という言葉があります。善を勧めて悪を懲らしめるという物語の王道パターンです。人気の時代劇や子ども向けの童話、ヒーローものの特撮など至る所にあります。「オオカミと三匹の子豚」は解りやすい例です。最終的には悪いオオカミさんが殺されてしまいます。一時期、「殺されるオオカミさんがかわいそう」とか「幼児向けにしては残酷だ」という批判が相次ぎ、オオカミさんと子豚さんが仲良くする結末も多用されました。ところが、肝心の幼児からクレームが挙がりました。オオカミさんが生きていたら、怖くて夜に眠れなくなる、とのことでした。最近では、あっさりと殺されるようになりました。ただし、聞き手の子どもたちが成長し物語の結末に疑問を感じた時点で、卒業、読み聞かせる必要がなくなります。こうして成長し、社会の現実を知る大人たちには、善悪を簡単に二分する物語は面白くありません。悪役がどうして悪に染まったのか、どこまで悪なのか、善なる心がわずかでも残っているのか、等々微妙な心理な変化を求めてしまうのです。最近は、そこでの加減が、善悪のコントラストが強いほど幼児向け、  微妙なほど大人向けと分類されるようになりました。  その視点から、聖書の悪霊を見てみると、不思議なことに気付きました。善悪のコントラストは強烈です。イエスさまの圧勝だから。しかし、人間が関与して、人間の立ち位置は悪よりひどいところになりそうです。勧善懲悪の物語は基本的に善>人間>悪の順序で人に善となるように促すものです。ところが、聖書では善>悪霊>人間の順序です。悪霊はイエスさまの正体を知っていて、その命令に従います。人間はイエスさまの正体に気付かずに、十字架に挙げてしまいます。 まあ、悪霊をやっつけるイエスさま=かっこいい、で終わってしまうと幼児向け。悪霊より人間が怖いと思えたら大人向け、結構層が深くて、難しくできています。イエスさまに助けてもらいたいですね。

6月19日「伝道する教会」

  私たちクリスチャンは伝道する教会というと当たり前のように思えます。だから、伝道しない教会がこの世界に存在するといわれると、逆に驚いてしまいます。キリスト教に近いところからいうと、ユダヤ教とイスラム教です。この二つの宗教は、伝道しない代わりに「子どもの信仰は親が責任を持つ」、とされています。キリスト教からは離れますが、先祖代々信仰が間違いなく継承される世界を福井県でみたことがあります。浄土真宗では先祖伝来のお墓(信仰)と田んぼ(家業)がセットになっており、信仰の継承が生活の安定と密接に結びついていました。ここでは、男子がお墓と田んぼ(土地)を相続します。5才にもなると耕運機(田植え機)に乗って自覚を促します。おまごちゃんの信仰にはおじいちゃんが責任を持っていました。キリスト教は比較的安全な存在として尊重されます。ここでは日蓮宗(創価学会を含む)が伝道型として嫌われます。相続の場面では、田んぼ(土地)が分けられないので、これに見合う現金が分けられます。そのために質素に貯蓄に励んでおられます。聖書に登場する放蕩息子は、敷居をまたがせてもらえません。与えられた相続分を食い潰すなどとんでもないという世界でした。「たわけもの」という表現がありますが文字通り先祖伝来の「田を分ける者」を指します。結構厳しいところもありました。 これに対しておおらかな、ゆるい継承は神社でしょう。特定の区域がありそこに住む人はすべて氏子という理解です。まあ、神道には「教え」がなくて狭義の意味では宗教ですらないかもしれません。特別な規定もなくただただ「ありがたい」という思いを大切にすることも、広く永らく受け入れられていました。祠やお地蔵さんなどは、近所のおばあさんが掃除をしてお世話します。特定専属の宗教家を必要とはしませんでした。このように大方の宗教は、土地産業と結びつき、家族親族の安定を図ってきました。 この視点からすると伝道型の宗教は、新興であるが故に、資産とは結びつかず、既存宗教のシェアを奪う存在として嫌われる傾向にあるようです。ちなみに、現在はイスラム圏はもとより、イスラエルでも布教活動は禁止です。 教会暦は、初代教会の伝統を色濃く残しています。さらには、日本のプロテスタントは、第二次大戦後に増えたところもあり、伝道型でスタートしました。戦後の価値観の不安定な時代はそれなりの成果があったみたいです。しかし、子どもたちへの信仰の継承が、うまく運ばなかったところもあり、苦戦しているのが現状です。社会の情勢に合わせて、言い換えがなされてきました布教から伝道、そして最近は宣教と言い換えています。人の思いや考えを変えていくのではなく、正しい教えを広く宣べて、賛同者を募る形態に変わりつつあります。穏やかに進めましょう。

6月12日「神の子とする霊」

 本日は三位一体主日です。私たちは教理・教義として「三位一体の神」を学びます。ところが、神学部で教理史を学びますと、ここに落ち着くまでにたくさんの議論が合ったことを知らされます。中には犠牲者まで出た(論争に負けた教派が追い出される)ことを知らされますので、この話題(三位一体論)はぶり返さない方が賢明だと知りました。この前提で話を進めます。本日は、父なる神は既知の事実であり、子なるキリストは復活によって神格を得ました。最後の聖霊様が大切だよということを確認する日です。 聖書のテキストからすると、イエスさまは聖霊によって宿り、洗礼を受けたときにも聖霊を受けています。人間イエス+聖霊で、神の御子となりました。使徒(キリストの弟子で特に選ばれたもの)たちも、ペンテコステの日に聖霊を受けて特別な存在となりました。この事件以降の私たちクリスチャンも聖霊を受けることで神の子となり永遠の命を継ぐものとなります。よろこばしいことですね。 理系出身の私にとっては、唯一の全能の神様は、確かにいると思われます。なぜなら、世界の秩序が守られていることが次々と証明されるからです。最近、はやぶさ2が採取した砂から、アミノ酸(タンパク質の材料)が発見されました。地球上で生命体を生み出した神のみ業が全宇宙的に(少なくとも太陽系全般)等しく行われていることが証明されました。もしたくさんの神様がいたら(多神教が真理ならば)、すべてが(神様の種類だけ)バラバラのはずです。例えば、HGウエルズの描いたたこ型火星人のように。ところが、全世界を探しても、全宇宙(太陽系)を調べても、この体系から逃れる生命活動も物理法則も見いだせません。何かしらが見つかるまでは、たった一人の神様がすべてを総ておられるという仮説が最も合理的です。 多神教にしろ一神教にしろ、この類いの神的な存在を否定するなら、すべては偶然の産物、何もかもが運次第となってしまいます。人類の存在はとんでもない低い確率の幸運の産物となってしまいます。そのような薄っぺらな物のうえに私たちが立っているとしたら怖くて落ち着けません。 やはり何かしら偉大な存在があります。(Something great) 科学的にはそこまでですが、信仰的にはそのような偉大な存在が、時折、私たちにかまってくださいます。もちろん自身の作られた秩序(法則)は守られたままですが、それでも、理論的に確率無限小の幸運がやってきます。聖霊様のお働きです。素直に感謝することですね。