5月30日「神の富」

「神の富」を考える前に、「人の富」について考えたいと思います。まず、ローマ帝国においては、基軸通貨がデナリ銀でした。世界の富がローマに集中したと言われますが、要するにローマ市民権所有者(その内の貴族)に集中していたことでしょう。初代のクリスチャンは非ローマ市民ですので、「人の富」はあまり巡ってきそうにありません。だから、「神の富」に目を向けましょう。ということになります。 人類は永らくの間、貴金属(金・銀)を基軸通貨としてきました。ところが、いずれも鉱物ですので、鉱山が見つかれば供給過多(インフレ)、掘り尽くせば供給不足(デフレ)となりました。デフレのあげくに世界大戦を勃発させてしまいす。経済の発展には通貨の供給が必要であり、貴金属の裏付けは無用となり信用取引が現代の社会です。「人の富」は政府の都合で無限に供給され、グローバル社会ではとんでもない大金持ちも表れ、格差が大きくなりすぎて富そのものの現実味がなくなってしまいました。 今日では「人の富」は地道に必要なだけ稼ぎ、年金をを確実にしようとしていますを確実にしようとしています。フランス革命のように大金持ちを殺しても、現金そのものがコンピューター上の記号でしかなく、貧しい人たち全てに分配したところで、お金の価値が少し下がる(インフレ)だけで、誰も幸せにはなりそうもありません。  ところが、「神の富」は全知全能の神様が無から有を創り出す力で、無限に造り出せるものです。慌てることも独り占めすることも不要です。人の富の限界を見極めて、落ち着いて神の富を求めながら過ごしましょう。

5月23日「聖霊の賜物」

 最近の若者の間(幼稚園の先生たちのことです)では、ちょっとしたアイデアが浮かぶと「降ってきた」という言い回しが流行しているようです。見えない力に動かされる、これもはやり言葉です。私は「背中を押してもらう」という言い回が好きです。そして割と普通に使われるようになりました。キリスト教的には問題があるようですが、結局は見えない存在を認めない(唯物論)は定着しなかった模様です。実存論(きっと何かあるとの考え方)の勝利と受け止めて良いと思います。 私たちは、現実の世界で生きていますが、身の回りで起きるできごとのすべてが予測できたり、予定通りだったりはしていないと感じています。どちらかというと、予測を遙かに超えた結果が多い気がします。より大きな意思に動かされている気がします。その折々に、神様を思い、背中を押していただいたと感謝の気持ちを持つことが、大切だと思えるようになりました。 すべてが予定通り、思っていたとおり、等々人間の思い上がりに陥らぬように過ごしたいと願います。  2,000年前に、犯罪者として裁かれたイエスの弟子たち、自分も裁かれるのではと引きこもっていた弟子たちが、力強く語り始めた日です。聖霊様の導きを信じて過ごしたいと願います。

5月16日「イエスの昇天」

 大雑把なくくりですが、旧約聖書が語りかけているのは多神教の世界です。特にバビロニア捕囚の時代は、「ユダヤの神が弱いから捕囚になった」と嘲られていました。その後も、属国の扱いで辛酸をなめた模様です。この立場の人たちには、自分たちの神こそ生きて働く神だ。現実にイエスさまが来てくださった。という文脈で語ることができるでしょう。 一方、新約聖書が語りかけるのは、ローマの価値観に対してであり、「死後の世界はない」「神様は応援してくれる存在」という世界でした。ですから最重要なメッセージは「天はある」「神はいます」「イエスさまはそこに帰られました」と語っているようだ。 個人の見解だが、今日の日本の一般人の宗教的な素養はとても貧しい物になりつつあると思えてならない。「なんとなく神様がいる。」「いたらいいなあ」ぐらいではないでしょうか。基本的な「見えない物を信じる心(ここに神が入るか仏が入るかは人次第)」そのものがとても薄くなったと感じています。 私たちは私たちで、イエスさまが天に昇られることを当然としていたことを反省する必要があるのでしょう。教会が当たり前に思っていることは、決して社会では当たり前ではないこと、改めて力を込めた語る必要のあることを、新約聖書(最初のクリスチャン)から学びました。

5月2日「父への道」

 本日は「父への道」という主題です。これは要するに、天国に行く道が開きました。という福音(良い知らせ)です。従来のユダヤ人は、「律法を完全に守らなければ天国には行けない。」と考えていました。しかし、パウロによれば「そんなことは無理です。」となってしまい「キリストを信じることで道が開ける」と言ってきました。 一般に「この世での生活に不満や限界が有り、来世に期待を寄せて、信仰に入る。」と言われているようです。そこで、ローマ帝国内のクリスチャン(女性、奴隷、被征服民)には受けが良かったようです。 ところで、お隣のエジプト人はどうだったのでしょう。「死者の書」もありますが、基本的には現世の身分が来世にも継続すると考えていた模様です。これって、現世の生活にみんなが満足(奴隷は奴隷なりに)していたのだろうと私は考えています。次の当のローマ市民権保有者は原則的には現世の終わりはすべての終わりと考えていたようです。ある意味、これ以上望むものがないほどに豊かだったのでしょう。 今の私たちは、どのグループが一番近いでしょうか。感覚的にしか言えませんが、エジプト人かなと思っています。(結構、平和で幸せだろ思っていますので……) 少なくとも、旧約聖書的な「地上の逆転」を夢見る人は記憶にありません。 緩やかに、天国に行けたらいいね、ぐらいでしょうか。

4月25日「イエスは復活また命」

 今私たちは、復活の主と共に過ごしています。初代教会の信仰告白「イエスは主である」が紹介されています。主Loadとは、奴隷が所有者を呼ぶときのことばです。自由民は使いません。最初のキリスト者は、奴隷・女性・被征服民ということで、所有者や征服民がいます。本来でしたらこちらを呼ぶときに使うことばです。ですから、信仰告白は自由民(所有者たち)に思い切り嫌われ、思い上がりを叱られ他ことだろうと想像できます。信仰者たちは、こっぴどく叱られることを覚悟の上で告白したことでしょう。 聖書の文言に「死んでも生きる」とか「決して死ぬことはない」と論理矛盾も見受けられます。少し当時の人間観を確認してみましょう。人間は霊の身体と肉の身体が二重になっていると考えられていました。そして大切なのは霊の身体だと聖書は訴えています。先の文は「たとえ肉の身体が死んでも霊の身体は生きる」 イエスは命(霊の身体のエネルギー源)だから彼を信じてエネルギーをもらうので「霊の身体は決して死ぬことはない」となります。 イエスは神様で命のエネルギー源です。だから、肉の身体は滅んでも(死ぬ)、霊の身体は傷つけることすらできません。この霊の身体が、神様の創造の力で別途肉体をまとった(肉の身体)との理解です。 もちろん、価値としては霊の身体>>霊の身体です。有名な「人はパンのみで生きるのではなく神の口から出る御ことばで生きる」もこの論理で、霊の身体の糧は御ことばで肉の身体の糧がパンということです。なかなか良い考えと思えます。

4月18日「新しい命」

 「新しい命」という主題が与えられました。このような場合は対立概念として「古い命」と比較してみるのが役に立つだろう。もちろん復活節なので、主の復活に触れて新しくなった命と、復活以前の命との比較ということになります。 ここでは死後の世界が問題になると思われます。日本では浄土宗が主流になっていますが、これは死後に幸せになることを約束して現世を我慢する考えでしょう。 さて、イエスさまの周辺はどうだったのだろうか。ユダヤ教徒でも死後の世界の有無で、サドカイ派がなし、ファリサイ派があり、議論をすると暴動が起きる状況でした。宗教の教義は人の信念として相容れなかったからです。信教の自由という概念は本当に最近の物です。一方、ローマ市民は、死後がなく現世のみと考えていました。これは極端な現実主義となってしまいます。驚いたことに古代エジプトでは、現世の身分制度がそのまま死後に反映されると考えられていました。これは、現世がよほど幸せで、誰も不満を持っていなかったと思われます。少なくとも、ローマ人に支配されるまでは、この世界観が続いていたみたいだ。 ユダヤ人たちは、神政政治を望んでいた。つまり神がこの世に現れ、憎いローマを追い出し、民主的な政治を行うことである。イエスの十字架はこの希望をくじいた。その後、ユダヤ戦争、マサダの籠城を通じて、神政政治を望むこと事態が熱狂主義としてユダヤ教から排除されました。 新約聖書の著述は、ここらあたりの事柄を前提にすると分かりやすい。武力闘争では決してローマに勝てない、チャレンジが無駄である。ローマ市民権を得るのはローマ的価値を受け入れなければならない。来世がないのだから、神々はいるようで、現実にはそれほどコミットしてくれない。無神論に近いといえよう。殺伐として物騒でもある。主の復活は来世の存在を示している。ここに希望を置いて、現実を我慢しよう。実はそれが我慢ではなくて、心穏やかに過ごす手段であったのだろうと思える。こういうと、少し物足りなく思えるかもしれませんが、結構お役に立てたので、今日のキリスト教になり得たのだろう。 

4月11日「復活顕現」

主の十字架について、歴史としてのリアリティーは理解したいと思います。そして、現実としての歴史のただ中に、復活という「奇跡」が起きました。いわゆる常識人としての反応が聖書に記されています。 当時のユダヤはローマ帝国の属国であり、アンティパスが領主として自治を行っていた。彼は、ヘロデ大王よりも格下で支配領域も少ししか認められませんでした。ポンテオピラトは、いわば帝国からの出向で、治安の維持つまり反乱の防止が主な任務でした。ユダヤの当局者たちは、アンティパスの横暴を嫌い、帝国に交代を要請していました。が、帝国は「分割して統治せよ」の政策のもと、反乱が起きない程度での内輪もめは放置していました。要するに、ユダヤ人たちには不満が鬱積し何時爆発するか分からない状態であった、にもかかわらず、統治する側の総督、領主、議会は三つ巴の微妙な状態であった。そこに登場したのが「イエスさま」でした。民衆は歓迎して受け入れます。(棕櫚の主日)しかし、このまま暴動へと発展したら、統治する側の三者共がローマ当局から罰せられ破滅してしまいます。だから、木曜日の夜は3カ所で裁判、最終的には総督が責任をとる形で十字架刑、ただし罪状書きには、「ユダヤ人の王」を名乗ったという、政治犯でした。 通常でしたら、ユダヤの歴史によくある「メシアを名乗った乱暴者」で決着が付くのですが、福音書の記述からすると「空の墓」が発見されてしまいました。これに対してユダヤ当局は「弟子たちが遺体を盗んだ」と公式に発表したもようです。 「空の墓」=「復活」と受け止めた人たちからキリスト教が起きました。この論旨の飛躍に不思議を感じます。 

4月4日「キリストの復活」

日本の教会暦では、受難週の出来事がざっとで流されているような気がします。聖書の記述に従って何らかの追体験ができればより感慨深い物になるのにと思っています。そうすれば、聖書の記述が、ユダヤの暦に従っているので、太陽暦との調整が必要となります。その上で、ああこの時間帯に、最後の晩餐(ユダヤ教の過越の祭)をしたのだ。この時間帯に裁判を受けた。ポンテオピラトのところに連れて行かれた。ローマ兵から侮辱を受けた。ペトロが知らないといった。等々。「ああ、確かにイエスさまは苦しまれた。つらかったろうなあ」と思えます。こうして、人類すべての罪を担われた、と確信することが望ましいと思っています。 主の十字架に確信が持てたら、「復活」の記述は、素直に心が解放されたと喜べるとおもうのです。福音書の最古の記述は「空の墓」の確認で終わっているそうですが、それで充分だと思えてしまいます。 近代的な実証主義に基づいて「主の復活」を語ろうとすることは、意味のないことのように思えてなりません。主の復活に元気をいただいた人たちが、どれほど元気になったのかを示すのが「復活顕現物語」だと思えます。  素直にお祝いし喜びましょう。イースターおめでとうございます。

3月28日「十字架への道」

  本日は、棕櫚の主日です。この日の大切さを改めて知ったのは、ずいぶんと昔のことでイエス伝の映画からでした。(タイトルは忘れました)とにもかくにも華やかで喜びに満ちた群衆に囲まれてエルサレムに入城するイエスさまが描かれていました。こんなに華やかな日があったのか、教会では聞いたことがなかったと不思議に思っていました。 何がどうして華やかになったのか?それが十字架とどのような関わりがあったのか?一体何の罪で十字架だったのか?等々数々の疑問が浮かび、あらためて歴史を学び、答えを求めてきました。とにかく当時のユダヤ人たちは、自分たちの領主(ヘロデ大王の息子)もこれを支えるローマ皇帝ティベリアヌスも嫌いでした。で、イエスさまが登場して、自分たちの王になってくれたらいいな、と思っていました。その思いが最高点に達したのが棕櫚の主日です。ここでイエスさまはろばに乗ってエルサレムに入城します。この行為は旧約聖書の伝統によれば、新しい王の御幸を表す示威行為(デモンストレーション)となります。新しい王様ができたとみんなが喜んでしまいました。でもってこれは、当時の政権側(イスラエルもローマも)にとっては、「謀反の恐れあり(今の王を追い出そうとしている)」となりとても危険な存在となります。謀反が起きると責任を問われるから。そこで、見せしめとばかりに十字架にかけられたのでしょう。ですからイエスさまの罪状書きには「(自称)ユダヤ人の王」と記されたとなります。  権力者の側についてはこれである程度納得のいく話となりました。ところが困ったことに、イエスさまを祭り上げた一般民衆が見えてきません。当時の政治情勢を理解できていなかったのだろうか。無責任じゃないかと思ってしまいます。とはいいながら、その責任を民衆には持っていけない気もします。だから「罪」で御子の命で贖うという論理になるのかな。 今週は受難週です。主のみ苦しみを憶えて過ごしましょう。

3月21日「十字架上の勝利」

 「十字架上の勝利」とは、後代のクリスチャンが、死に打ち勝ったキリストを見て初めて気づけるものです。当時のイエスさまの周囲にいた人たちにとっては想像もできなかったことでしょう。どうやらイエスさまは周りの人たちから地上の(ユダヤ)王になると期待されてた様子です。 本日の福音書では、ゼベダイとヤコブの母が、イエスに息子たちの出世を依頼する姿が描かれています。さらに、他の弟子たちがこれに嫉妬する姿も描かれます。十字架が見えていたイエスさまは答えに窮しただろうと思われますが、確かに歯切れの悪い返答をしていました。 近年、ローマ史が流行し塩野七生が長所を述べれば、そうでもなかったと別の歴史家が語ったりしています。どちらにしても、属国であるユダヤが民主的に選挙(人気投票)で新しい王を擁立したら弾圧することに異論はありません。 今日の世界情勢を見ても、まっとうで民主的な手法で国の元首を選ぶところは少数派でしかありません。大半の国では政権批判はタブーとされており、ましてや勝手に国家元首を名乗れば死罪となるところもあるだろう。つまり、時代の空気も、今日的価値観からしても、イエスさまの周りの人たちはとても危険なことをしているようにみうけられます。 伝統的に「十字架上の勝利」は、現世の価値観とはかけ離れたところでの、天上世界での勝利(人を罪から解放する)を意味しており、ありがたく受け止めるべきところでしょう。現世にある牧師としては、現世にある政治情勢を見るほどに、イエスを十字架へと導いた力があまりにも現世的で気になって仕方がありません。 幸い、日本はまっとうな民主主義の国です。自分たちの幸せを喜び、そして今後とも守り、困難な立場の人たちを思い祈りましょう。