10月27日「創造」

 自然科学の基本法則に質量保存則があります。これは絶対的なもので、「無から有は生じない」とされます。自然科学を前提とした牧師である私はこのように折り合いを付けてきました。質量保存則は神さまが作られた規則です。だから、神さまだけに無から有をつくる業(天地創造)ができます。被造物には無から有の業は許されていません。 ところが現代貨幣理論(MMT)によると、銀行と国家は現金を生み出す(創造する)ことができるそうです。この理論は、話の筋(合理性)という意味では正しく思えます。しかし心情的に納得がいかないという側面も持っています。まあ、貸し方借り方双方に数字が発生するのですから、質量保存則的に問題なしといえばそうなのでしょうけれども、その感覚になじみがありません。負の質量を持つ物質が未だに発見されていないからでしょう。物理の世界では反物質は理論的にはあります。時空を超える(ワープ)宇宙船に使われるそうですが空想科学小説の域です。理屈に矛盾はないのですが、心情的に同意しきれません。  MMT学者によると、長期デフレで不景気な日本では、大量の国債を発行して、安定的に景気を底上げする必要があると訴えます。特に公共投資(治山事業や福祉関連の人件費)を長期的に安定して発注して、早急に景気を底支えすることが必要とのことでした。国債増発による債務不履行(デフォルト)は心配いらないそうです。  かといって、土木業者の不正や、不透明な原発事業の歴史を知るだけに、無節操な国債増発に不安が残ります。立場としては、幼児教育や公共の福祉に関しては財源に悩まず投資をして欲しいと思います。  もしかしたら、自分自身がもう新しい考え方について行けなくなっているのかも知れません。難しいものですね。

10月20日「天国に市民権を持つもの」

 新約聖書の中で「市民権」といえば、ローマ帝国市民権を指します。伝道者パウロがローマ市民権所有者であり、ローマ帝国内を自由に往来して宣教したことは有名な話しです。ローマ市民権を持つものが、強盗にでも襲われた時は、「ローマ人を攻撃するものはローマ帝国を攻撃したと認められる」としてローマ軍が襲いかかり犯人をやっつけていました。ローマ世界ではローマ市民権所有者は国家によって守られた存在であった。ここから類推すると、「天国に市民権を持つもの」は、「いつでも何処でも神さまに守られているもの」を意味し、必ずしもローマ市民権を持っていなくても大丈夫ということを意味したと想像される。(古代社会において)さらに、必ずしもローマ市民権を持っていなくても、という条件は、奴隷や属国民など「すべての民」を内包しています。これはとてもラッキーというものでしょう。  ところが、聖書のテキストはちょっと厳しい。士師記ではせっかく集まった兵士達に、様々な条件を加えて数を減らしている。(天国に入るのは難しそう)ヘブライ書ではイスラエルの歴史的な偉人の苦労話が続き、その人達よりあなたたちが幸せといっています。(苦労話が悲惨すぎて…)ルカ福音書では与えられた資本を10倍にして返さないといけないみたいだし(そんな商売が一体どこに?)という厳しいばかりのお話しです。 こんな厳しい条件を付けられたら、守ってもらえないのじゃないかと心配になります。 ということで、この世での苦労は絶えません。でも、安心してください。皆さんもれなく天国(来世)は保障されていますよ。ということになるのでしょうか。  この話にあまり興味のわかないあなたは、現代に生きる人です。経済が豊かになり、この世での苦労が減っています。この世に満足する人は、来世への期待は薄くなるということでしょうね。

10月13日「金持ちと貧者」

 近年は、金持ちの実体が変わってしまったようだ。世界のグローバリズム化が進み、特定の人への富の集中は天文学的な数字になってしまった。私が子どもの頃、お金持ちとは「運転手付きの自動車」に乗っている人だったが、最近は自家用ジェット機に乗る人となり、日本のIT長者に至っては月ロケットを予約している。巨万の富が貯め込まれているより使ってもらった方が景気が良くなりそうで、冷めた拍手を送ろうと思う。ここまでくれば貧富の差も広がりすぎて嫉妬する気も起きそうにない。そして、悲しいことだが、これらの人達の努力を認めて尊敬し、子どもたちのお手本として指し示す気持ちも起きない。  一方貧者の定義も難しい。かつては欠食児童という言葉があったが、今や死語となった。今では年収360万円以下の世帯が給食費の無償化の対象となっている。これを貧しいとはいいにくい。むしろ、住所が不定や、外国人など住民票がなく福祉の対象から漏れている人たちなどが、社会から黙殺されることが心配である。  もはや、金持ちと貧者の所得を比較して、所得の再分配という概念は意味を持たないのかもしれない。  これからは、相対ではなく絶対的な貧困層を見出し強力な助け手をさしのべるべきだろう。(社会を安定させるため)さらに絶対多数の人たち(相対的貧困層)に広く富を分配し、消費を促すことが求められるのだろう。(景気を刺激して安定したインフレ率を保つため)  特定の大金持ち達がお金を貯め込むのなら、それに負けないだけのお金を印刷して、相対的な価値を減らしてしまう方が近道のようだ。イエスさまの時代とはマクロ経済が変わってしまったということだろう。 悩ましいものだ。

10月6日「世の富」

 私たちキリスト者は、神さまの元に「恵」があり、これを礼拝や信仰生活を通して分けていただき、みんなで分け合って生きている。この恵は不思議な性格を持ち、私たちが必要とするものに形を変わってくれます。例えば、食べ物であったり、衣服であったり、場合によってはお金にもなります。だから、恵を大切にしなさい。一方、ここで言われる「世の富」とは恵からの生成物にすぎません。こころを惑わされてはいけません。本当に大切な恵を見失ってはいけませんという教えです。  ここで取り上げられているのが、ルカ書の「不正な管理人」の喩えです。不正を働いた管理人が更に不正を働いて仲間を増やす、これが主人にほめられるという話しです。「???」というのが正直な印象です。  できるだけ整合性のある私なりの解釈を試みました。主人=神、管理人=祭司、借りのある者=一般庶民とします。主人の持つ財産は「恵」で総量は無限にあります。庶民が借りているのは「罪」です。(神さまの方を向かずによそ見をしたということ)管理人にしても借りのある者にしても罪人です。代価を支払う能力はありません。主人である神に贖ってもらうだけです。管理人と借りのある者は互いに不正を働いて借財を減らします。つまり互いに許し合って神に贖ってもらっているのです。  赦しの本質は神さまにあるのですが、管理人と借りのある者のやり取りを見て「まあいいか」と苦笑いをする主人の姿が、神さまらしくていいですね。  私たちは互いに赦されていることを確認しながら、共に歩んでまいりましょう。

9月29日「新しい人間」

 教会の説教で「新しい人間」といわれると、これからの自分はどんなことをしなければならないのか、更なる負担に意気消沈してしまいます。多分、今までさんざん「お説教」を聞かされて育ったせいでしょう。  ところで、キリスト教で「新しい」といえば、キリスト(西暦0年)以降です。つまり、2,000年前からずっと新しいのです。ですから、いまさら追加で「~しなければ」ということは何もありません。ご安心ください。ただ、その2,000年前に新しくなったことが何かを毎年確認することを聖書日課は勧めています。  古いとされるのは、律法に明示された「やってはいけない」こと集が、新しく愛の宗教と呼ばれる「してあげたいな」へと変更がなされました。もう一つ言って良いなら、神さまとのおつきあいが神殿経由の間接的なものから、「アッパ父よ」と呼びかけられる直接的なものに変わりました。 放蕩息子が赦されるお話しがあります。赦されるのは弟です。都市部では皆さん納得して聞いてくださいます。ところが長男が先祖伝来のお墓と田んぼを守ることが義務のような地域・地方では、ものすごい反発を受けました。なにせ弟に渡した半分の財産を作るのに兄も苦労しているからでした。要するに、「大都会で自由に過ごして、つらくなったからといって、帰ってこられても食い扶持なんてないよ」ということです。とても容認できないというのが本音でしょう。 限られた財産を分配して浪費する。これは赦されるはずのないことです。ところが、限りのない財産だったらどうでしょう。無限は神さまの属性で、神さまの元にはいくらでも恵があります。どれだけ弟が浪費をしても、無限の恵は減りません。だから兄は安心して弟を赦しましょう。というお話しです。もちろん、だからといって、安心して再び放蕩を繰り返すのは無しですよ。こころから悔い改めるのですよ。というお話しです。 主イエスの十字架によって、私たちはすでに赦されたのだから、私たちも許し合いましょう。無くすものはありません。なぜなら神さまから無限の恵みが与えられるのだから。 ということです。心情的にはついて行きにくいかも知れません。それでも,神さまが仰るのですからね。

9月22日「十字架を負う」

 私たちクリスチャンは、主イエスの弟子として働くことが期待されている。本日の聖書日課には弟子となるための、たいへん厳しい要件が示されている。 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」  まず、主の十字架とはいったいどのようなものであろうか。神学的には全人類の罪を一身に担っている。だからとても重たいものだろう。とはいいながらも、すでに十字架によるしょく罪は完成しており、もはや私たちの負担分は残されてはいない。それでも主の周りには、御利益に預かりたくて「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」が溢れていた。このお世話をする係としての自覚は求められる。各自がそれなりに与えられた役割を担っていくことになるのだろう。  筆者は家族を大切に思いながらも、倶知安の地に単身赴任で来ていた。主の御旨と信じたからだ。更には、夢にも思えなかった建築事業も成し遂げさせられた。神さまの導きを信じ、与えられた業に真摯に取り組むことが求められるのだろう。

9月15日「神のわざが私に?」

 子どもの頃から頭の上に「?」が浮かび上がる聖書箇所でした。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。」(理不尽な印象もありますが、これは古代人の考え方として理解できました。)ところが「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」という答えに「?」がつきまとうのです。そんなこと(神の栄光を現す)のために、半生を全盲で過ごさせるなんて、神さまはひどい!!、と思っていました。  ところが全盲のゴスペルシンガーが、自分の目が不自由なのは「神の業(栄光)を現すためだ」と力強く語る姿を見て、びっくりして、納得してしまいました。  落ち着いて考えてみました。生まれながらに目が不自由な人は、その状態が当たり前の常態なのだろう。その目が見えるようになると今度は、常態からより良い状況となるのでしょう。もとが普通だったのだから。飛躍的に状況が良くなることは、確かに神の業ですね。  なにかややこしいお話しのようですが、これこそが健常者の思い上がりと指摘された気がします。上から目線の自分を恥じます。  すべての人が、神さまから恵をいただいて生きています。その恵を輝かせることに、互いが配慮し合うこと、そこに神の国が実現するのでしょう。

9月8日説教「誘惑・試みからの救い」

 主の祈りからこの一節が選ばれています。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」 私たちキリスト者は、神の御旨に従って生きることを志しています。すなわち、常にこころが神さまの方を向くように努力をしています。実のところこれがなかなか難しくて、毎週のように礼拝に出席して、罪の告白をし、赦しを請い願っている。これは守れないことが前提となっており、守れなかったから直行で地獄落ちというわけではありません。きちんと礼拝生活を送っておれば、それほど心配するほどのことでもなさそうですね。  誘惑にちなんで少し神学的な話しをするなら、最も危険な誘惑とは、自分が何でもできる、何もかも自分がなしたとかいう類いの思いを持つこととされている。これを難しい言葉で「自己の絶対化」と呼んだりします。絶対という概念は難しいが、対立する概念としては「相対」を考えると判りやすい。「神の前に私は罪人の一人に過ぎません」という表現は自分を相対化しているといえるでしょう。科学者達が宇宙の成り立ちを考える際にキリスト教のGodが使いづらく「something great」を信じるとされるのも、自己(科学)の絶対化を避けたい気持ちを表しているように思える。  ところで最近流行の言葉に「上から目線」というものがあります。これは批判的に用いられることが多いようです。自己を絶対的な立場と認識し、他者を見下げる物言いをすることにたいする批判のようです。ところが語り手が「上から目線で言われたくない」と話し始めると、この語り手こそが上に立とうとしているのかしらと感じてしまうことが多い。専門家の専門性までも「上から目線」の名のもとに拒否しているように聞こえてしまうこともあります。自分自身が専門職なもので余計気になるのかも知れません。‥常に謙虚に振る舞とは難しいものですね。

9月1日「信仰の証し」

 いつの間にか、私たちの国「日本」では、信仰とは心の中の問題と思われるようになってしまった。本日の主題に初めてふれた方は、「こころの内面をどうやって証し(証明)するのか」とギャップを憶えるかも知れない。 ところがキリスト教では信仰とは「公に口で言い表すもの」で定式化されたいくつかの「信仰告白」が礼拝の中で用いられている。最近の研究によると同じ信仰告白=同じ人間、異なる信仰告白=異なる人間、つまり大げさに言うと人権にまで影響を及ぼすほど大きな問題であったそうだ。(宗教戦争)  今日でも厳密に言えばプロテスタントは「信仰のみ」であり、ローマンカトリックでは「信仰と行為」としてそれぞれに定義が異なるようだ。要するに日本的にこころの内面の事柄としての情緒的な受け止め方とはことなりかなり厳しいものとして位置づけられている。 私たちの日常としてはそこまで厳密に理解することは現実的ではないようだ。それでも、明確に言語化されていることは意識して欲しい。 その結果、信仰の中身が明文化されていることから、その文言がその人の行動を規制するものだ、というと難しく聞こえる。しかし、「神さまを信じます」という人が神を冒涜する行為はしないだろう。「あなたの隣人を愛しなさい」と教えられている人が現実の隣人をないがしろにはしないものであろう。 神さまの性質として「光あれ」との言葉が光となったという天地創造の物語からも推し量れるが、「言行一致」は高く評価される。 現代社会が複雑化しているので、何処までこだわれるのかは、もちろん限界がある。それでも言葉と行いは一致することが望ましいし、例えできなくても何かしらの思いを持ってすごすことが勧められる。  神の御旨に近づけるように務めていきたいものです。

8月25日「主の来臨に備える」

 キリスト教は時間に対して始まりと終わりを想定しています。つまり「始まり」と「終わり」があると考えています。そして本日の主題は終わりの時を意識して緊張しながら過ごしましょうという勧めです。

 ここでいう始まりとは「天地創造」のもの語りで示されます。私は小学校へ上がる前から教会に通っていました。ところが、「天地創造」は学校に上がったとたんに全否定されてしまい、進化論が正しいとされました。もやもやしながらも、なんとなく時が過ぎるうちにビッグバン理論(宇宙(時間)に始まりがある) ことが示されました。(これは個人の内面の話しなので、学年、科目は入り交じっている)天地創造とは異なるが、「始まり」があることを知ってなんとなく安心した記憶があります。

 さて、「終わり」についてですが、始まりと終わりがセットなので、始まりがあったのだからいつかはくるのだろうくらいであまり悩みませんでした。一時期流行したノストラダムスの大予言は鼻で笑っていました。どうやら終末論を強調しすぎると弊害が多いようです。なにせ、この世に、なんとかの予言は無数にありますが、どのような曲解をしても外れてしまうのが「終末」です。当たった試しがありません。「終末論」を盾に将来への備えを無視する教派もあります。年金の積み立て分を献金に回せという教派もあります。教職者の年金を積み立てず、信仰の継承に支障を来す例もあります。(牧師の子弟が親の扶養を拒否する)

 答えをいいますと、主の来臨がいつになるのかは誰にも判りませんということになります。 神という絶対的な存在は、私たちが置かれている時間軸とは異なるところに存在しています。故にその行いを予測することは不可能です。もし、誰かがあなたにだけ特別に教えてくれるという人がいたら、その人は「嘘つき」と思ってください。

もっとも時間が無限にあるからといって、のんびりしすぎるのも問題だとおもいます。たとえこの世の終わり(終末)が遅れているといっても、私たちには限られた時間しか赦されてはいないのです。 神学的に限りある時間の流れとはいっても、歴史的にはざっと7,000年ぐらい数えることができます。私たちの生涯はほんの僅かしかありません。神さまから託された努めを果たして、次の世代に託していくのが本来あるべき姿です。私たちに赦されているのは限られた時間ですが緊張感を持って臨んでいきたいものです。