5月3日「弟子への委託」

 復活後のイエスは何かと忙しそうだ。とにかく、人間の枠を超えているので、神出鬼没に自由に飛び回っている。それでも、残された時間が限られているようで、粛々と最後の教えを語っているように思える。つまり、空間的には自由だが時間的には制限があるということだ。もっとも、時間も空間も自由になるのは聖霊様となってからなのだろう。  ということで、限られた時間の中で、密度の濃い言葉が語られている。「私の羊を飼いなさい」とは、これからの弟子たちの仕事を指している。教会を作りその指導者となることだ。   ところで、そろそろ連休も終盤に入っていく。緊急事態宣言がどうなるのか、これに対して私たちは何をしなければいけないのか、総理や大臣、知事や市長が入れ替わりニュースでコメントを発している。一段とわかりやすく人気の出たのは大阪府知事だろう、北海道知事も頑張り感が出ている。 国政を担う人たちの歯切れの悪さが、国民のいらだちを高めているようだ。  とはいいながらも、直接間接はあるにしても、私たちが民主主義という手段で託した人たちであることは間違いは無い。まずは信頼することが大切だと思う。安易な批判はたしなめたい。もちろん各個人が意見は意見として言えば良いが、それも民主主義という枠組みに従ってきちんと宣べるべきだろう。声の大きな人が決めることや、雰囲気や空気で流されること、そちらの方をより用心深く受けとめたい。  昇天日が近づいてきた。主と共に歩める日も限られている。聞けることはすべて聞いて心にとめておきたい。もうすぐ、自分で判断しなければならなくなるのだから。

4月26日「復活顕現2」

 新型コロナウイルスの蔓延を防ぐために自宅にいましょう。というキャンペーンがはられている。しかしそれが、「防ぐ」の部分が言い訳に用いられて、とにかく「人が集まる」=「悪いこと」になりつつあるようだ。これは「同調圧力」というもので、人と同じでないと安心できない、から、圧力をかけて人を同じにしてしまう、となる。この先には「魔女裁判」が待っている。危険な兆候を感じる。人それぞれ事情があるのだから、とかそれぞれ感染防止には気を配っている、などの配慮をして、穏やかに過ごしてもらいたい。  戦後の非戦への誓いのせいか軍事用語が使えない世の中になった。戦争とは事の是非を問わず、非常時緊急時の対応が求められる。今回のコロナウイルスへの対応は、まさしく、米国が言うようにウイルスとの戦争であり、私たちは勝利を目指して戦っているのである。非常事態そのものである。ところが、日本のマスコミは軍事用語を使えないので、状況がうまく伝わっていないような気がする。  いま、日本中の人が自宅にこもりすべてを自粛している。これは、「自粛要請」と呼ばれているが、実質「戒厳令」だろう。法的な罰則がないという議論は無意味に思える。今は、ほとんどの活動を自粛して(戦線を縮小)時間を稼ぎ、ワクチンや特効薬の開発にエネルギーが注がれる。近い将来には、心配は減り普通の生活に戻れる。つまり反転攻勢に出る日も近いのだ。 昨日までのペトロは主の十字架を間近に見て、引きこもっていた。 ところが、今日のペトロは、漁にでた。主と出会ったときに戻ったのだ。ペトロのうちにエネルギーが蓄えられていることを感じる。反転攻勢の日は近い。期待しよう。

4月19日「復活顕現」

 新型コロナウイルスの影響で、都市部では主日礼拝の実施が困難となり、家庭礼拝が勧められている。ここ倶知安では安心して主日礼拝が守られている。改めて喜びを感じる。  政府の緊急事態宣言が、全国に広げられた。そのただ中にあって、安心と安全が乖離していくことを心配している。ひたすら安心を求めるために、客観的な根拠も無いのに「怖いから」といって差別的な態度を示す事例は多い。今私たちが求められているのは、発症を減らし医療の崩壊を防ぎ死者を出さないことである。そのためにみんなが我慢することと憶えておきたい。  これは同時に、現在の段階では医療の崩壊を防ぎながら、自然免疫の普及を待っていることとなる。こうして時間を稼ぐうちに、ワクチンか特効薬が開発されるだろう。だからもう5月7日に収束するとは思えない。そろそろ長期戦に向けて、いろいろと考えなければと思う。  不確実な情報が多いが、幸いなことに一つだけはっきりしている。このウイルスで人類は滅亡しない。80%以上は発症すらしない。だから、できる感染予防は完璧にして、運悪く発症した20%の人たちのために、負担を担い合いましょう。それは紛れもなくキリストの示す「隣人愛」 です。復活の主は、死を克服された方です。私たちも落ち着いて対処したいものです。主もきっと望んでおられます。

十字架への道

4月2日「十字架への道」

教会の礼拝が新型コロナウイルスの影響で、守りづらくなっているようです。月報に対して、「毎主日を祈りの中で守っておられる事うれしく存じます」という感想が届いています。年配の方にとって、なにかと変更されることは結構なストレスのようです。重ねて、倶知安伝道所が何の不安も無く礼拝を守られていることは、とても幸せなことだと感じます。   本日「棕櫚の主日」はイエス様がエルサレムに迎えられた日です。子ロバに乗って、シュロの葉を足下に敷き詰められて迎えられるのはまさしく示威行為(デモンストレーション)であり、エルサレムに新しい「王」が現れたことを示します。それは同時に現在の権力者、ヘロデ家、ローマ帝国への反乱を意味します。まさしく十字架への道をまっしぐらに進んでいる場面です。十字架上の罪状書き「ユダヤ人の王」はリアリティーのある表現です。  この日、主を「王」として迎えた民衆が、わずか一週間後に、十字架を見上げることになります。自分自身もそのうちの一人とした上で、人の心の脆さや弱さを思い知らされる時が今この時なのです。  ローマ、ロンドン、パリ、ニューヨーク等々世界中の大都市が閉鎖されゴーストタウンと化した映像が届けられています。ほんのわずかな間に…、あれほど栄華を極めた都市がこれほどまで…といろいろ思わされます。それでも人々は今を耐え忍んでいます。解放される日が来ることを誰も疑ってはいません。主の復活を信じましょう。

2月2日「新しい神殿」

 神殿とは、神さまと出会う場所という理解ができます。ユダヤ・キリスト教の伝統では、エルサレムの神殿が有名です。ダビデ王が建設を試み、神から拒絶され、時代のソロモン王が建設した。(第一神殿)その後、バビロニアに占領されたときに破壊された。ペルシャ王クロスに帰還を許され再建を試みる。(第二神殿)これはみすぼらしかった。ヘロデ大王の時代に大幅な改築を遂げた。(イエスの時代)紀元70年のユダヤ戦争でローマに破壊された。跡地にはこの地を征服したものたちがそれぞれの神殿を設立した。現在はイスラム教の岩のドームが聖地として建てられている。ユダヤ教の神殿は一部が残っており嘆きの壁として有名である。  世界に唯一の神殿とすると、このような悲惨な奪い合いが永遠に繰り返されることになる。  信仰者が集う場所として、各地にシナゴーグが建設されるが、これは教会の原型と考えられる。  キリスト教がユダヤ教から決別されたときにシナゴークからも追い出された。このころから、信仰者一人一人の心がイエスを通して神さまと結びつき神殿と称されるようにもなった。(聖書が書かれた時代)とはいいながらも、心のよりどころとして目に見える建て屋を必要とするのは、人間の姿だろう。大きさや様式は様々あるが、落ち着いて祈る場所を定め、時を定めて祈る習慣を大切にしていきましょう。 

1月26日「宣教の開始」

 宣教とは、教えを宣べることです。教会以外にも幼稚園等の教育機関や、医療機関で行われる、「お話し」はかなり厳密に整理されており普遍性のあること(倫理)しか語られません。クリスチャンになってもらう事を目的とした、布教・伝道とは異なる扱いになります。確かにイエスさまが語り始めたときはユダヤ教の教えを宣べていました。後にそれがキリスト教に整理されました。  人間が直接的に主を垣間見ることは許されません。あまりの熱情に生身の人間には危険なことなのです。そこで、人間の姿をしたイエスさまが表れ、生身の人間がイエスを通して主に臨むことが許されるようになりました。  こうして私たちは主の御旨を知るものとなりました。  ユニークなのはカナの婚礼です。マリアは母としてイエスに命令します。イエスは「まだ時ではない」としながらも従います。→ここで神の御力が示されました。その内容は婚礼へのはなむけで、水をぶどう酒に変えてしまったのです。イエスは飲酒をします。贅沢品を好みます。人を楽しませることが大好きです。ここで示されたのは神さまの本質です。  神さまの御許にある恵は、人を喜ばせるものであり、時として高級ワインになるほど贅沢なものです。  神さまの御業を示す教会の宣教は、豊かさを感じてもらうことにあると思います。手段は状況によってさまざまであり、予算に限りはあります。はじめて参加した人が「豊かだな」を感じてもらえるように工夫することが肝要です。

1月19日「最初の弟子たち」

 教会暦では、宣教の開始よりも、弟子の召命が先に来ています。これは、イエス様の生涯が、あまりにも限られているため、その後の弟子たちの働きが重要視されているものと思われる。  ところで、旧約聖書では「聞き従う」、新約聖書では「従う」ということばがそれぞれ多用されています。「聞き従う」とは命じられた内容を確認して実行することを指す。「従う」とは、一切の疑問を挟まず、盲目的に従うことを意味します。  そこで、旧約聖書の預言者の召命物語、同じく福音書の召命物語を読むと、その両方を含むと読み取れます。 まあ、「聞き従う」では、人の主体性が含まれます。良いことのようですが、全知全能の神に逆うことになります。一方「従う」では、 神に従順という良い点と、カルトに騙されそうという不安もあります。結局のところ、どちらか一方ということはなく、両方の性質が聖書に描かれています。  さて、当事者としての私たちは、どのようなスタンスで神の召しに答えるのでしょうか。といっても「召し」に物的証拠はありません。存在を証明できないのが神様です。神様のせいにはできません。最終的には自らの意思が働きます。客観的な情勢からどれほど導かれようとも、神様から与えられた自由意志が判断の基準となります。  まあ、だからこそ、信仰生活を維持して魂の状態をコントロールすることが求められています。  「神様の召しに答える」という思いを大切にしましょう

1月12日「イエスの洗礼」

 聖書学的にも神学的にもバプテスマのヨハネが「先駆者」として活動していたことは大切です。そしてその後に登場したイエスさまが洗礼を受けて、王としての活動を始めたということは毎年毎年語られるところです。 イエスの洗礼の場面で、霊が鳩のように降ってきたといわれている。私たちの知るイエスさまは、神の御子として公の活動を行っています。そこには人間イエスとしての苦難の姿もあれば、神の力を内に宿して存分に力を振るう場面も描かれています。では一体いつからイエスさまの中に神の力が宿ったのか、と初代教会では議論があったようです。  議論の詳細は割愛するとして、人手あるイエスさまの中に神さまの力が宿る瞬間を描くのに、「霊が鳩のように降ってきた」のは視覚的にも説得力のある表現だと思えます。  ここから、神のみ子イエスキリストの物語が始まります。楽しみに読み進めましょう。

1月5日「受肉の秘儀」

 現代的な感覚からはかけ離れたお話しになります。  神様は霊的な存在です。その御子も同じく霊的な存在です。天地創造の以前からあり、言とか知恵(ロゴス)と呼ばれます。この霊的な存在が人間の肉体をまとったことを「受肉」と呼びます。このことは、公に明かされることがありませんので、秘密の教義(秘義)と呼び習わしています。  このことを通して、肉体に捕らわれている私たちが、霊肉兼ね備えたキリストを通して、救いに至るという論理になっています。難しいですね。  以上は 『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』の後半部分に関わる教義です。現代では「精神的な養い」と軽く思われがちなところです。しかし、真剣に受け止め、行動に移すと御利益の大きいことは、まず間違いありません。  自分自身の内にある「霊的な部分」に対し、意識的に養いを与える行為を私たちは大切にしていきたいと思います。神様の祝福を祈ります。

12月29日「見て、信じるもの」

本日の主題を見て「あれ、見ないで信じるものだった?」と思いませんでしたか。それはトマスが復活の主にたしなめられる時のことばです。主の復活は「見ないでしんじる」ものですが、ヨハネ福音書では主が数々のしるしを示しているのだから「見て信じる者」が求められます。   にしても、見ても信じない者が大半で、イエス様がイライラしているのが読み取れるテキストです。それは、5,000人もの人を5つのパンで満腹させたのだから、もっとたくさんの人が来て、もっとたくさんのパンを求めるのももっともな気がします。すでに示したのにさらなるしるしを求められています。これに対してイエス様は信仰が足りないと嘆いておいでです。  この様子から、人間の貪欲さやあさましさを読み解くことは可能です。しかし、信仰が足りない、という表現とうまくかみ合わない気がします。  5,000人の供食を果たしただから、将来の食物を心配することなく宣教の業に専念する。これが理想でイエスさまを信じるということだと思えます。一方、5,000人の供食を果たした。すぐさま更に明日の5,000人分の食物を心配する。のでは信仰が足りないということなのでしょう。なんとなくの不安や、もっともっとという思いに駆り立てられてしまいます。出エジプト記のマナはみんなが少しずつでも余分に取り置くと、腐ってしまい使い物にならなかったとか。神様からの恵みは必要に応じて十分、かつ余分はありません、ということです。 信じることは確かに難しく思います。