私たちは礼拝の中で「主の祈り」を唱えます。これは、私たちの主イエス・キリストがこのように祈りなさいと教えてくださったお祈りです。
「お祈り」そのものは、人間が神さまに語りかけたり、お願いをしたりする自然な行為です。個人的に栄耀栄華を求めることもありですし、この世の不条理に対する怒りをぶつけることもありです。とは言いながらも、公の礼拝では、他の会衆の思いを含めてみんなのお祈りを献げることが良しとされます。という意味で、内容が整えられて、解りやすい「主の祈り」は永らく用いられてきました。神の御子が教えてくださったお祈りですから安心して口にすることができます。
キリスト教系の幼稚園に入園すると、真っ先に暗唱するのが「主の祈り」です。言ってみれば基本中の基本です。よく読んで内容を広げたり深めたりすれば、私たち人間の思いを汲み取ってくれていることに気づかされます。ここでは、この「主の祈り」について簡単に解説をしていきたいと思います。
天にいます われらの父よ
「天」について説明します。天とは古代人の世界観で上の方の世界を指します。概ね天上界、地上界、黄泉(地下の世界)の三界をイメージしています。天上界には神様がいます。そこから地上界を見守っていました。時々会議を開いているようです。→ヨブ記1:6(この時はサタンが出席しています。天使の一員の扱いです)。近代的な宇宙観を学んだ私たちは違和感を憶えます。ただ、古代人の文書ですから、近代的な天文学の知識は期待できません。彼らがただ目に映るままに、自分を取り巻く世界を理解しようとしていたのでしょう。なんとなく上の方にとっても良い世界があって、神様がいらっしゃると思っています。
その天上界にいる神様に呼びかけているのですが、「父よ」という呼びかけは、親近感を強調する呼びかけで、わたしたちの主イエスが始められました。→マルコ14:36 本来的にはもっと仰々しい呼びかけが主流だったのでしょう。遙か彼方の天上世界の最も奥まったところにいた神様だったのが、イエス様の呼びかけ以来手の届くところまで来て下さいました。つまり、父=親ですから保護者です。ですから、「目には見えないけれど、どこか上の方にいて、私たちを見守り保護してくれる方よ!!」という呼びかけの文書です。
古代人の世界観について、少し補足をします。天上界で起きた出来事は、後に地上でも起きると考えられていました。神話的とでもいうのでしょうか、ここでは二つの事例を参考までに紹介します。
一つは、占星術です。夜空に浮かぶ星々を観測していると、常に同じ位置にある星(恒星)とその間を不規則に動き回る星(まどえる星=惑星)の2種類があることに、全ての文明が気づいています。そこで古代人たちは仮説を立てました。このまどえる星の運行を予測すれば、きっと、将来が予測できるだろう、というものでした。永年にわたって国家事業の規模で観測が行われてきました。初めて、きちんとした理論と計算でまどえる星の運行を言い当てたのはコペルニクスでした。残念ながら彼には天文観測を続けるしかるべきスポンサーが見つからなかったので、ホロコーストを売って糊口をしのいだそうです。
もう一つは、戦隊もののTVを見ていたときに気づきました。等身大の悪役が、正義の味方にいじめられて、行き詰まったあげくに巨大化します。これに戦隊たちも巨大ロボットで立ち向かいます。最終的には悪役は大爆発をして物語は完結します。等身大が地上界で、巨大化したものが天上界だとしたら、観客は二重で安心できるエンディングとなっています。子ども向けで分かりやすい完結だと思っています。ただし、物語の制作者側が、「神話」を意識していたかどうかは確認していませんので、あくまでも私の理解です。
み名があがめられますように
み名=御名です。神様の名前を直接に口にできない(失礼とか不敬にあたる)から、遠回しに「とっても大切なお名前」と言ったものです。あがめる=崇める「すぐれたものとして大切にし、高い敬意を払う。」英語で表現すると to respect、 to revere となります。神様にたいして、高い敬意が払われますように と願っています。意味としては「私自身は敬意を表しています。どうか世界中の者が、あなたの尊さに気づき私と同じく敬意を表しますように」と願い祈っています。
ということは、もしかしたら当時(紀元後100年前後)は私たちの神さま(God)に対して、それほどの敬意が払われていないのかとツッコミを入れたくなります。確かにイエス様が祈っていたときは、「(ローマ帝国に屈服した)ユダヤ人の神」であり、その500年ほど昔では「(バビロニア帝国に屈服した)イスラエルの神」でした。その間、ユダヤが独立したのはほんのわずかな期間しかありませんでした。だから、被占領民の神ということで崇めてくれない人の方が多かっただろうと思えます。
「名前」について古代人の感覚を少し知っておくと分かりやすくなります。まず、一般庶民においては「その時その場において個人が特定できれば良い」という感じで、適当につけられていました。「イエス」も旧約聖書に登場する「ヨシュア」です。大都市では同じ名前の人が大勢登場するので出身地を付け足して「ナザレのイエス」と呼ばれています。
そうはいいながらも、「名前」そのものは名前をつけられた者の本質を表すとされています。それに神様レベルになると、口にするのも畏れおおいとなり、直接に呼ばれることはありませんでした。そしてとうとう、この時代には神様の固有名詞が忘れられていました。学術的にはたぶんヤハウエが本当だろうといわれています。時々耳にするエホバは誤読であることが確定しています。
後は余談になります。日本を含む漢字文化圏では、本名(真名まな)は呪いをかけられないようにと秘密にされていました。日頃呼び習わすのに通称(字あざな)が用いられ、死亡した場合は業績をたたえる諡(おくりな)が付けられました。これは日本史を学ぶ時に意識していると便利です。有名どころでは継体天皇は明らかに業績(天皇の血統を継いだ)に対する評価です。一方、西洋では、生まれながらには適当な名が付けられ、出世に従い様々な称号が加えられていきます。新約聖書に登場するアウグストスは尊大な者という称号で、生まれたときに付けられた名前は、オクダビアヌスといいます。ちょっとかっこよさそうに見えますが、日本語に直訳すると八郎ぐらいの意味しかありません。多産多死の時代ですから、幼子にそれほど思いを寄せられないという現実の表れですね。
最近、日本では、「マイナンバー」が制度化されました。その取り扱いにはとても注意が払われます。いろいろな規定も必要です。これはきっと「真名(まな)」が「マイナ(マイナンバーの略称)」となったのだろうと、私は心の中でしゃれていました。
み国とは御国です。天上にある神様が支配している国のことです。先ほど記しましたように、常に異民族の支配を受けてきたユダヤ人です。自分たちだけでの国家を作りたいという望みを強く持っていました。ところが現実にはそうはなりません。そこで、天地の造り主なる神様が直接支配してくれることを夢に見ていました。それが、「み国が来ますように」と表現されています。イエス様以降の時代に入っても、隣人愛を掲げて弱者救済を実践してきたキリスト者も、弱者、虐げられる人のいない「み国」を待ち望んでいました。
イエス様のお働きも「神の国」運動といわれます。ただこれが、「ローマ帝国からの独立」なのか「理想国家の建設」なのか「現実味のない理想郷(ユートピア)」なのかはっきりとしなかった模様です。今日のキリスト者も理想的な社会を目指しています。もちろん、すぐには実現できないだろうけれども、遠い将来のいつかを目指して努力を重ねています。早急な神様の介入を求める(終末論)のは、一部の風変わりな人たちで、主流ではありません。とはいいながらも、社会は安定し、弱者は保護され、十分とはいえないながらも理想に近づいてきました。これは良いこととして喜びたいものです。
全くの余談ですが、私は少年の頃にユートピアがフランス語で意味は、「現実には決して存在しない理想的な社会」だと知りました。「現実には決して存在しない」と断定しているところに「そんなもの目指しようがない」と子どもなりに傷ついたものでした。その後、非ユークリッド幾何学を知り、定義からして決して交わらない平行線だが、その中央に立つと交わって見える(線路の真ん中に立つと、地平の彼方で交わるように見える)と学びました。その時はそれなりに安心したこともありました。今は、これこそが「希望」なのだと、生きる力の源になっています。
み心が天に行われるとおり地にも行われますように
天上にある神様の国では、当然ながらすべてが神様の思い通りになっていることでしょう。この地上でもそのようになりますようにというお祈りです。当時の地上界はよほど神さまの御旨からかけ離れた理不尽に満ちていたのでしょう。その頃最初にキリスト教を受け入れた人たちは社会の主流派ではありませんでした。ユダヤ人からそれ以外に広がったと思われますが、何れにしてもローマ市民権は持っていません。「神様のみ心」つまり弱者の救済が現実のものとなることを願い祈られたようです。
もっとも、「全知全能」の神さまのことです。そのみ心は地でも行われているはず……。ところがその恩恵が自分のところに回ってこない。という不満を感じる人もいたことでしょう。そのせいか、このように教えられました。神さまのみ心は、人の思いを遙かに超えているので、私たちには理解できません。あなたが感じていることはあくまでも人の思いにすぎません。神さまはあなたのことも充分に分かってくださっています。それらはともかく、この『み心が……』という一文には「地上には、神さまの意を介さない悪い奴らがいます。私はつらい思いをしています。どうか思い知らせてやってください」というところでしょうか。
わたしたちの日ごとの食物を今日もお与え下さい
「自分たちはひもじい思いをしながら育った分、お前たちには食べるものは充分に与えてきた」というのが私の母(大正7年生まれ)の口癖でした。なるほど、私の世代ですら満足に食物がないという状況を見たことも経験したこともありません。そういう意味では私たちもマリーアントワネットと(パリ市民が「パンがない」とデモをしたときに「パンがなければお菓子を食べれば良いのに」といったほどに庶民感覚から外れていた)。さほど変わらないのかもしれません。最近まで、食料の生産量が人口を決定したといわれています。飢饉には必ず餓死者が出る。結構ギリギリで生活をしていたのだ。というのが世界の常識でした。
横道にそれるようですが、農業の実態を知ることは古代社会を理解するのに役立ちます。そこで稲作文化の日本と麦作のヨーロッパの違いをふまえながら記しました。日本はヨーロッパよりも圧倒的に土地生産性が優れていた、というのは事実です。平均すると稲作ではまいた種の30倍の生産量が得られたのに、麦作ではせいぜい3倍程度と言われています。聖書の「 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。マルコ4:8」ということばは、稲作では日常であるのに麦作では大豊作を意味しています。しかしながらそのカラクリは温度と降水量の優越に加え、「日本は同じ面積に8倍の労働力と資源をぶちこんでいた」というものであり、そりゃ土地生産性は低いわけがない、という話です。つまり、どちらのお百姓さんも必死で働いていた。稲作では狭い土地で、人の労働だけで耕作をしていた。麦作では広い土地に、農耕馬を使って耕作していた。という違いはあるものの、それぞれの穀物がその時々の人口を養う限界(最適化)の収量だったのです。どちらが有利というものではありません。気候の変動で多少なりとも収量が下がれば、あっという間に飢饉になるのです。どちらも、お腹いっぱい食べることは許されず、常に「日ごとの食物」に不安を覚えながら生活をしていました。このお祈りには、「食べ物が足りなくて、餓死者が出ないようにしてください」という古今東西共通の、全ての人の願いが込められています。
わたしたちに負債のあるものをゆるしましたように わたしたちの負債をもお許し下さい
キリスト教の祈りですから、「原罪(生まれながらの罪)」の概念が生きています。罪を負債と理解して、この負債を贖うのに対価が必要となります。神様に許していただこうと思うなら、常日頃から互いに許し合おうではありませんか。というように自分自身に返ってくるお祈りです。本来は、許すという行為は等価交換です(利子の免除だけでもたいしたものですから)が、私たちは自分の犯した罪を全て贖うだけのものを持ち合わせてはいません。そこで「死」をもって贖うとされていました。ところが、私たちの命を贖うために、神の御子イエスキリストが命を投げ出して下さったのが十字架の神学です。その貴い犠牲を受け入れるためにも、せめて、隣人に対しては許しましょうね。という「教え」を身につけるお祈りです。
経済的な「負債」も聖書にはよく登場します。キリスト教の母体であるユダヤ教の律法(旧約聖書)に「七年目ごとに負債を免除しなさい。申命記15:1」とあります。古代から負債は人々の生活を脅かすものだったと思われます。神さまの命令が法として生きている間(主権国家として存在している)は、これが実行され良かったのです。ところがずっと、属国です。法律を制定するだけの主権が与えられていません。そこで倫理へとお勧めが変わっていったのも仕方がありません。
話は変わるようですが、「古代メソポタミヤの遺跡から粘土板が発見された」と聞いてわたし個人は「水に溶ける粘土の板なんて、何の役に立つのだろう?」と思っていました。ところがそれは粘土を焼いた陶板だったそうです。そして見つかった出土品のほとんどは貿易の記録だったそうです(ギルガメッシュ叙事詩なんてほんの少ししかなかったそうです)。「ユーフラテス川の上流で壺を何本積みました」という記録ばかりです。粘土板に刻んで、焼成するともう改変が効かない、不正の入る余地のない記録でした。もちろん陶板は焼くための燃料代が必要なのでとても高価でした。ですからここに効率よく記録する(紙面の節約)ためにヘブライ文字は母音すら書かなくなったといいます。その文字を使った数詞(アルファベット)の記録だからよほど高度な技術者(書記官はトップエリ-ト)でないと使いこなせなかっただろう。その記録を持って文字の読めない(計算のできない)一般庶民に「あなたの負債はいくらです」と取り立てるのだから、やりたい放題だったと思えます。これに対抗するために、神様の命令として「七年目ごとに負債を免除しなさい。」と定められたのもうなずけます。
時代は下ってイエス様の時代はどうでしょう。塩野七生がローマ人の物語で「勝者の権利」から債務奴隷を説明してくれたのでやっとすっきりと理解できました。正規の戦争をする。勝者は敗者のすべてを手に入れる。殺すのも自由だし奴隷として売ることもできる。この時、奴隷として売られた金額が「債務」となります。奴隷は労働しその債務を返済すれば自由になれます。もちろん奴隷の所有者が債務を放棄しても奴隷は自由になれます。塩野七生のことばですが、「債務奴隷」に最も近い現代語は「サラリーマン」だそうです。その一生は、家族を養い、子どもに教育を与え、家のローンを払う、ローンの終わった頃には家の資産価値が残らないことでほぼ終わる。定年を迎え年金生活(債権収入)に入ってやっと自由なれるようです。初代のクリスチャンに債務奴隷が多かったそうですが、だとしたら、心の底から真剣に祈っていたのでしょう。
わたしたちを試みに会わせないで悪しき者からお救い下さい
まず、「試み」とは何のことでしょう。私たちはなにげに日常を送っていますが、ちょっとしたきっかけで、心を迷わせ道を踏み外す事例を結構耳にするところです。キリスト者はこのようなきっかけを「神さまが試みを与えられた」と教育されます。 旧約聖書のヨブ記をご存じですか?神さまが自分に対するヨブの信仰が熱心なこと、品行方正なことを自慢します。それを聞いていたサタンが、神さまによって恵まれているから(現世利益があるから)信仰するのだ、不幸になったら信仰を捨てるに違いない、と答えました。そこで神さまはサタンにヨブを預けて不幸にすることを許しました。その後は、ヨブさんはどんなに苦労しても決して神さまへの信仰を捨てませんでした。というのが試みの説明です。
誰だって、そのような思いはしたくありません。神さまがそんな試みを検討している間も、悪がはびこるのだから、そっちもなんとかしてください、という正直なお祈りです。
国と力と栄光は とこしえに あなたのものです。
基本的には、古代の王様に対する呼びかけ、褒め言葉です。主の祈りが書かれた紀元90年頃はローマ皇帝よりも、神さま(God)の方が偉いと最初のクリスチャンたちは思っていたのでしょう。
アーメン
真実という意味です。お祈りは個人が心の中で祈ることもありますが、このように文書にされ公に朗読されるお祈りもあります。公にされた祈りに、これこそ真実です。私も同意します。といういみでアーメンと参加者が唱和します。