8月25日「主の来臨に備える」

 キリスト教は時間に対して始まりと終わりを想定しています。つまり「始まり」と「終わり」があると考えています。そして本日の主題は終わりの時を意識して緊張しながら過ごしましょうという勧めです。

 ここでいう始まりとは「天地創造」のもの語りで示されます。私は小学校へ上がる前から教会に通っていました。ところが、「天地創造」は学校に上がったとたんに全否定されてしまい、進化論が正しいとされました。もやもやしながらも、なんとなく時が過ぎるうちにビッグバン理論(宇宙(時間)に始まりがある) ことが示されました。(これは個人の内面の話しなので、学年、科目は入り交じっている)天地創造とは異なるが、「始まり」があることを知ってなんとなく安心した記憶があります。

 さて、「終わり」についてですが、始まりと終わりがセットなので、始まりがあったのだからいつかはくるのだろうくらいであまり悩みませんでした。一時期流行したノストラダムスの大予言は鼻で笑っていました。どうやら終末論を強調しすぎると弊害が多いようです。なにせ、この世に、なんとかの予言は無数にありますが、どのような曲解をしても外れてしまうのが「終末」です。当たった試しがありません。「終末論」を盾に将来への備えを無視する教派もあります。年金の積み立て分を献金に回せという教派もあります。教職者の年金を積み立てず、信仰の継承に支障を来す例もあります。(牧師の子弟が親の扶養を拒否する)

 答えをいいますと、主の来臨がいつになるのかは誰にも判りませんということになります。 神という絶対的な存在は、私たちが置かれている時間軸とは異なるところに存在しています。故にその行いを予測することは不可能です。もし、誰かがあなたにだけ特別に教えてくれるという人がいたら、その人は「嘘つき」と思ってください。

もっとも時間が無限にあるからといって、のんびりしすぎるのも問題だとおもいます。たとえこの世の終わり(終末)が遅れているといっても、私たちには限られた時間しか赦されてはいないのです。 神学的に限りある時間の流れとはいっても、歴史的にはざっと7,000年ぐらい数えることができます。私たちの生涯はほんの僅かしかありません。神さまから託された努めを果たして、次の世代に託していくのが本来あるべき姿です。私たちに赦されているのは限られた時間ですが緊張感を持って臨んでいきたいものです。

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