9月1日「信仰の証し」

 いつの間にか、私たちの国「日本」では、信仰とは心の中の問題と思われるようになってしまった。本日の主題に初めてふれた方は、「こころの内面をどうやって証し(証明)するのか」とギャップを憶えるかも知れない。 ところがキリスト教では信仰とは「公に口で言い表すもの」で定式化されたいくつかの「信仰告白」が礼拝の中で用いられている。最近の研究によると同じ信仰告白=同じ人間、異なる信仰告白=異なる人間、つまり大げさに言うと人権にまで影響を及ぼすほど大きな問題であったそうだ。(宗教戦争)  今日でも厳密に言えばプロテスタントは「信仰のみ」であり、ローマンカトリックでは「信仰と行為」としてそれぞれに定義が異なるようだ。要するに日本的にこころの内面の事柄としての情緒的な受け止め方とはことなりかなり厳しいものとして位置づけられている。 私たちの日常としてはそこまで厳密に理解することは現実的ではないようだ。それでも、明確に言語化されていることは意識して欲しい。 その結果、信仰の中身が明文化されていることから、その文言がその人の行動を規制するものだ、というと難しく聞こえる。しかし、「神さまを信じます」という人が神を冒涜する行為はしないだろう。「あなたの隣人を愛しなさい」と教えられている人が現実の隣人をないがしろにはしないものであろう。 神さまの性質として「光あれ」との言葉が光となったという天地創造の物語からも推し量れるが、「言行一致」は高く評価される。 現代社会が複雑化しているので、何処までこだわれるのかは、もちろん限界がある。それでも言葉と行いは一致することが望ましいし、例えできなくても何かしらの思いを持ってすごすことが勧められる。  神の御旨に近づけるように務めていきたいものです。

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