9月22日「十字架を負う」

 私たちクリスチャンは、主イエスの弟子として働くことが期待されている。本日の聖書日課には弟子となるための、たいへん厳しい要件が示されている。 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」  まず、主の十字架とはいったいどのようなものであろうか。神学的には全人類の罪を一身に担っている。だからとても重たいものだろう。とはいいながらも、すでに十字架によるしょく罪は完成しており、もはや私たちの負担分は残されてはいない。それでも主の周りには、御利益に預かりたくて「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」が溢れていた。このお世話をする係としての自覚は求められる。各自がそれなりに与えられた役割を担っていくことになるのだろう。  筆者は家族を大切に思いながらも、倶知安の地に単身赴任で来ていた。主の御旨と信じたからだ。更には、夢にも思えなかった建築事業も成し遂げさせられた。神さまの導きを信じ、与えられた業に真摯に取り組むことが求められるのだろう。

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