9月29日「新しい人間」

 教会の説教で「新しい人間」といわれると、これからの自分はどんなことをしなければならないのか、更なる負担に意気消沈してしまいます。多分、今までさんざん「お説教」を聞かされて育ったせいでしょう。  ところで、キリスト教で「新しい」といえば、キリスト(西暦0年)以降です。つまり、2,000年前からずっと新しいのです。ですから、いまさら追加で「~しなければ」ということは何もありません。ご安心ください。ただ、その2,000年前に新しくなったことが何かを毎年確認することを聖書日課は勧めています。  古いとされるのは、律法に明示された「やってはいけない」こと集が、新しく愛の宗教と呼ばれる「してあげたいな」へと変更がなされました。もう一つ言って良いなら、神さまとのおつきあいが神殿経由の間接的なものから、「アッパ父よ」と呼びかけられる直接的なものに変わりました。 放蕩息子が赦されるお話しがあります。赦されるのは弟です。都市部では皆さん納得して聞いてくださいます。ところが長男が先祖伝来のお墓と田んぼを守ることが義務のような地域・地方では、ものすごい反発を受けました。なにせ弟に渡した半分の財産を作るのに兄も苦労しているからでした。要するに、「大都会で自由に過ごして、つらくなったからといって、帰ってこられても食い扶持なんてないよ」ということです。とても容認できないというのが本音でしょう。 限られた財産を分配して浪費する。これは赦されるはずのないことです。ところが、限りのない財産だったらどうでしょう。無限は神さまの属性で、神さまの元にはいくらでも恵があります。どれだけ弟が浪費をしても、無限の恵は減りません。だから兄は安心して弟を赦しましょう。というお話しです。もちろん、だからといって、安心して再び放蕩を繰り返すのは無しですよ。こころから悔い改めるのですよ。というお話しです。 主イエスの十字架によって、私たちはすでに赦されたのだから、私たちも許し合いましょう。無くすものはありません。なぜなら神さまから無限の恵みが与えられるのだから。 ということです。心情的にはついて行きにくいかも知れません。それでも,神さまが仰るのですからね。

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