11月29日「王の職務」

 クリスマスは新しい王の到来をも意味している。聖書では、キリストの十字架の罪状書きには、「ユダヤ人の王」と記されている。ヘンデルの名曲は「king of kings」と歌い上げている。毎年、「王」について考えることになっている。一般人がイメージしている、おとぎ話の王様ではなかなか理解がたどり着かない。少なくとも、古代中近東の王、中世ヨーロッパの王、近世の立憲君主制の「王」、新憲法下の「天皇」を意識しながら、民衆がどのように受け入れてきたのかを考察する必要があるだろう。そこまで詳しく語れないが、一般に、王の職務とは「食糧の確保」と「治安の維持」といわれている。もし王が専制的にふるい、それが度を超すと臣民が夜逃げしてしまうという構図は古今東西共通するようだ。満足に食えないと王といえどもギロチンにかけられてしまう(フランス革命)。日本では早くから(鎌倉時代)から、王の職務はまつりごと(祭り事)に限定され、実際の政治は武家や官僚が担ってきた。これはとても優れたシステムで、天下を揺るがせる政変が起きても(明治維新等)権力を有するものが交代するだけで、「クニ」としての権威は保たれる。国の民は一つのよりどころに集まることができた。国家安泰の礎となってきた。世界中の王家からも、国民に選ばれた王(大統領)からも、暴力で勝ち得た王からも尊敬を受けている。 今年は天皇家の代替わりで、多くの儀式やお披露目が行われているが、その一つに大嘗祭が行われた。大嘗祭とは、王の職務のうち「食糧の確保」を目指すもので、一代で一度だけの大きな行事である。そして私が気になったのはその手段である。日本の天皇家は「祈り」をもって食糧の確保を目指し、それが国民に広く受け入れられていることである。  うろ覚えの世界史を紐解けば、人類は、穀物が栽培されて初めて余剰食物を手に入れることができた。およそ、紀元前6,000年頃といわれている。そして、この時から貧富の差が生まれ、権力者が余剰食物を独占し支配の根拠とした。この権力者が「食糧の確保」する手段は、武力による強奪や他地域の占領というイメージを持ってしまっていた。祈りが主とは習わなかった。  ところが、落ち着いて考えてみれば、余剰食物は、まず祭司を生み出したのではないだろうか。なぜなら、大規模農業となるので、多くの人をまとめなければならない。それは「暴力による収奪」よりも「祈りによる分配」のほうが耕作には向いているようだ。「天皇」が権力から離れているのは、ある種の必然と思える。この国においてはそうだったのだろうと思えてしまう。詳細な議論はできないが、平和な世界を思ってしまう。そこは、神さまの恵みが満ちた地で、キリストの隣人愛を実践するだけで、すべての人が満ち足りて幸せに過ごせるところだろう。  次週からアドベントです。御子の到来を待ち望みましょう。   

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