8月2日「命の糧」

コロナ騒動以来「不要不急」ということばが耳をついて離れません。「不要不急な外出は控えてコロナウイルスの拡散防止に努めましょう」という呼びかけと共に、学校は休校が命じられました。飲食店に対しても、休業要請が出されました。その他諸々と今日まで続いています。 この間、ほとんどの人が以下の問に晒されたのではないでしょうか、「自分の仕事は不要不急ではないのだろうか」という重たい問題です。 私たち、キリスト教は肉体と魂を別と捉えています。肉体に食物が必要なように、魂にも養いが必要だと考えます。ですから、「不要不急を控えて…」という表現になると、魂に必要な養いの部分は必要ないといわれていします。不要不急は控えてでは冠婚葬祭ができなくなります。現に主日礼拝が守られていない教会も多数でてまいりました。 このあたりは哲学のことばで議論した方がわかりやすいかもしれません。私たちはヒトではなくて人間なのです。不要不急というくくりでは、生物としてのヒトとそれ以外の社会を作り出す人間との人間の部分がないがしろにされている印象を受けます。  では、何を持って人間とするのか、ということには様々な答えが用意されています。「ケモノではないのだから」から始まって「(神様などの)大きな存在を畏れる」までいくつもの答えがあります。定義はそのいずれでも良いのですが、人間となるための営みに元気を与えて下さるのが、「命の糧」ということになります。 自分は人間なのだ、命の糧を必要としているのだ、そして神様からその糧をいただくのだと、心にとどめて新しい一週間を歩みましょう。

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