4月18日「新しい命」

 「新しい命」という主題が与えられました。このような場合は対立概念として「古い命」と比較してみるのが役に立つだろう。もちろん復活節なので、主の復活に触れて新しくなった命と、復活以前の命との比較ということになります。 ここでは死後の世界が問題になると思われます。日本では浄土宗が主流になっていますが、これは死後に幸せになることを約束して現世を我慢する考えでしょう。 さて、イエスさまの周辺はどうだったのだろうか。ユダヤ教徒でも死後の世界の有無で、サドカイ派がなし、ファリサイ派があり、議論をすると暴動が起きる状況でした。宗教の教義は人の信念として相容れなかったからです。信教の自由という概念は本当に最近の物です。一方、ローマ市民は、死後がなく現世のみと考えていました。これは極端な現実主義となってしまいます。驚いたことに古代エジプトでは、現世の身分制度がそのまま死後に反映されると考えられていました。これは、現世がよほど幸せで、誰も不満を持っていなかったと思われます。少なくとも、ローマ人に支配されるまでは、この世界観が続いていたみたいだ。 ユダヤ人たちは、神政政治を望んでいた。つまり神がこの世に現れ、憎いローマを追い出し、民主的な政治を行うことである。イエスの十字架はこの希望をくじいた。その後、ユダヤ戦争、マサダの籠城を通じて、神政政治を望むこと事態が熱狂主義としてユダヤ教から排除されました。 新約聖書の著述は、ここらあたりの事柄を前提にすると分かりやすい。武力闘争では決してローマに勝てない、チャレンジが無駄である。ローマ市民権を得るのはローマ的価値を受け入れなければならない。来世がないのだから、神々はいるようで、現実にはそれほどコミットしてくれない。無神論に近いといえよう。殺伐として物騒でもある。主の復活は来世の存在を示している。ここに希望を置いて、現実を我慢しよう。実はそれが我慢ではなくて、心穏やかに過ごす手段であったのだろうと思える。こういうと、少し物足りなく思えるかもしれませんが、結構お役に立てたので、今日のキリスト教になり得たのだろう。 

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