4月25日「イエスは復活また命」

 今私たちは、復活の主と共に過ごしています。初代教会の信仰告白「イエスは主である」が紹介されています。主Loadとは、奴隷が所有者を呼ぶときのことばです。自由民は使いません。最初のキリスト者は、奴隷・女性・被征服民ということで、所有者や征服民がいます。本来でしたらこちらを呼ぶときに使うことばです。ですから、信仰告白は自由民(所有者たち)に思い切り嫌われ、思い上がりを叱られ他ことだろうと想像できます。信仰者たちは、こっぴどく叱られることを覚悟の上で告白したことでしょう。 聖書の文言に「死んでも生きる」とか「決して死ぬことはない」と論理矛盾も見受けられます。少し当時の人間観を確認してみましょう。人間は霊の身体と肉の身体が二重になっていると考えられていました。そして大切なのは霊の身体だと聖書は訴えています。先の文は「たとえ肉の身体が死んでも霊の身体は生きる」 イエスは命(霊の身体のエネルギー源)だから彼を信じてエネルギーをもらうので「霊の身体は決して死ぬことはない」となります。 イエスは神様で命のエネルギー源です。だから、肉の身体は滅んでも(死ぬ)、霊の身体は傷つけることすらできません。この霊の身体が、神様の創造の力で別途肉体をまとった(肉の身体)との理解です。 もちろん、価値としては霊の身体>>霊の身体です。有名な「人はパンのみで生きるのではなく神の口から出る御ことばで生きる」もこの論理で、霊の身体の糧は御ことばで肉の身体の糧がパンということです。なかなか良い考えと思えます。

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