6月6日「悔い改めの指針」

  新約聖書に展開される「悔い改めの神学」にはバビロニア捕囚期の議論が反映されています。古代社会は多神教で、国家にはそれぞれの守り神がいました。ユダヤがバビロニア帝国に滅ぼされたのですが、それは古代人にとって、ユダヤの神(ヤハウエ)がバビロニアの神に負けたことを意味します。バビロンで生活する捕囚された民(ユダヤ人)はそのことを散々馬鹿にされました(詩編参照)。そこには、バビロニアの神に鞍替えをしたユダヤ人もいたはずです。彼らはその時点でユダヤ人ではなくなってしまいます。自我同一性(アイデンティティー)を失ってしまうからです。ユダヤ人たちは、全知全能で天地の造り主である神がなぜ負けたのかを考えました。神さまが負けるはずはありません。神さまの御旨に従えなかった自分たちが神さまから見捨てられたのだと結論しました。そして、神さまは未来永劫に自分たちを見捨てたのでしょうか?そんなはずはないでしょう。自分たちが悔い改めたら、神さまとの関係が回復して元に戻れるはずでしょう。そして信仰を深めながら保ちました。 その後、バビロニアから帰還が許され、国家を再建しました。ただし大国の属国として、との条件が付きました。悔い改めに効果はあったのですが、微妙に不足していた?ぐらいがイエスさまの時代のようです。 それでも、「悔い改めに許しが与えられる」という神学は人々に希望をもたらせ、キリスト教として世界に広がりました。と私は考えています。

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