8月1日「宣教への派遣」

 キリスト教が生まれたときは、新宗教でした。そこで、教えを広める「宣教」がと手も大切なことになりました。 選ばれた聖書からはとても皮肉な話が続きます。まず、ヨナ書が取り上げられました。ヨナは神に命じられて、ニネベに滅びの預言に出かけます。ヨナ自身には宣教の意思などありません。ところが、ニネベの町では、全員が悔い改めたもようです。使徒言行録が語るのは、サウロの宣教です。サウロとはパウロのことです。今更ながら、パウロを否定する人はいません。ところが、当時はパウロは主に会ったことはなく、使徒と呼んでもらえずに苦労したというお話しです。最後に福音書ですが、百人隊長が、自分の部下の治癒を依頼するのです。この際、百韻隊長は主に命令だけをくださいと願い、その通りになったというお話しです。 以上のことから、要点をまとめました。宣教の技は大切です。神さまから命じられます。命じられたことをそのまま実行すれば良いのです。たとえ、好ましく思えなくていやがりながらでも、結果は神さまが保証してくださるのです。また、宣教の業に資格は必要ありません.誰でも大丈夫です。なにせ全知全能の神さまですから、結果は神さまにお任せして、私たちはがんばるだけです。

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