2月27日「奇跡を行うキリスト」

 イエスさまのお働きを学んでいます。今回は「奇跡を行うキリスト」です。福音書からは嵐を鎮める場面が選ばれています。旧約聖書からはヨナ書1章も読まれます。こちらは神さまが嵐に命じる場面です。神さまが(地中海の)天候に命令すると、そのとおりになるようだ。そしてイエスさまも(ガリラヤ湖の)嵐を命令に従わせることができる。どちらも天候を従わせるのだから、イエス=神だと読者の理解がいたることが期待されている。私たちも素直に受け止めたい。 古代社会では、奇跡=不思議な力=神さまが働いたというふうに一般に認識されていたようです。だから、主題としては成立する。が、果たして現代人に説得力があるのかと思ってしまう。 少し思考実験をしてみました。「奇跡なんて馬鹿馬鹿しい、とても信じられない」「信じて欲しければ、今ここでやって見せろ」という言葉はあちらこちらで飛び交っているように思えます。私自身はこの意見に対して永らく疑問を感じていました。変人扱いをされるのが嫌で、口にはしませんでしたが……。 大変めんどくさいことですが、奇跡を定義してみます。たぶん「ありえないこと」になるのでしょう。この「ありえない」が「私たちの常識からしてありえない」のか「科学的な法則からしてありえない」のかは前者の方が圧倒的に多いということです。「科学的に考えられない」と仰る方々の科学的リテラシーは決して高くはありません。なぜなら科学的リテラシーの高い人は、「科学的にあり得ない」事柄に出会っ事実は受け入れて事実は受け入れて「科学的に解明」しようとするからです。むやみに「科学的にあり得ない」という人は事実を受け入れない傾向にあるようです。 ここでいうところの「科学的」とは再現性があるとか確立しているということです。再現性があるということは,何時どこで誰がやっても同じ結果が得られるということです。だから、理系科目には実験実習が大切なのです。 ここで、聖書を振り返ってみると神さまの技とされる奇跡は再現性が(あまり?)ありません。モーセがエジプトで魔術師たちとの対決で行った奇跡は再現性に?はつきます。それでも最大級の奇跡「復活」にはありません。 一方、理系科目の実験実習をどれほど繰り返しても理系科目の苦手は治りません。私の仮説ですが、そこには「信じる」というキーワードがあるのではないでしょうか。奇跡は信じるものです。科学法則は受け入れるものです。信じる必要はありません。この区別が結構曖昧なまま来ているようですね。奇跡=神さまだけになし得ること=物理法則からの逸脱、と考えてみましょう。すると、一回だけの不思議なできごとがおきたらそれを奇跡といいます。聖書の中でイエスさまは再々「徴を見せて欲しい」と要求されますが、そんなことはめったにできることではありません。一回キリの手品のネタを無数に持たなければいけなくなるからです。これは要求そのものが矛盾をはらんでいます。 全く逆転の発想ですが、物理法則が、全宇宙の至る所で安定して観察されることこそが、世界を安定させる神のみ技(秩序の維持)と考えた方がよりよい気がします。

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