3月20日「受難の予告」

 福音書の書かれた目的は「イエスはキリストである」ことを読者に伝えることです。聖書箇所を見ると「受難の予告」の直前にペトロは信仰告白をしています。この時点で、「あなたはメシアです」と正解にたどり着いています。この後、予告があり、受難があり、復活があり、宣教命令へと続いていきます。こうして伝えられたメッセージはやはり「イエスはキリストである」と同じ内容になってしまいます。つまり何度も何度も同じ内容が繰り返されているのです。 そこまでしなくても、ペトロの信仰告白で、記述を終えてもいいのではないかという人もいるかもしれません。これに対して、予告も現実の受難も、すべてやはり必要だったと私は考えます。  たとえば、小学校の「さんすう」を思い出します。義務教育である以上、社会人のほとんどがそこで出される問題を解くことができます。しかし、大半の人は小学生に教えることはできません。実は、小学校の「さんすう」はその後、中学・高校で学ぶ「数学」の基礎・土台に相当します。 そして、高校の「数学」で「物理」「化学」に求められる基礎が完成します。大言壮語すると高校の「数学」「物理」「化学」を理解できれば、その瞬間にすべてが一つの系統であり、すべてが大切なものであり、その一部が「さんすう」だったと後から気付かされるようになっています。大切なことは何度も繰り返して学習します。そしてしっかりと積み重ねて体系を作ります。  福音書の目的が「イエスがキリストである」ということを確信を持って人に伝える(教える)ことにあります。そのために、福音書のすべての要素が必要で、全体を一つの体系として身につけることが大切だと強く思います。 時折、「そんなことは知っている」「何度も聞いた」という声を聞きます。みなさんはそのようなことを思ってはいけません。主のみ苦しみを想起しながら過ごしてまいりましょう。

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