4月24日「復活顕現」

 週の初めの日の朝早くに「空の墓」が発見された。これが最古の福音書マルコに記された事柄です。 その日の夕刻、弟子たちが2階屋根の家に引きこもって鍵を掛けていました。きっと、主イエスが政治犯として極刑に処せられたので自分たちにも累が及ぶことを恐れたのでしょう。その弟子たちのただ中に復活の主が現れた。そして、手と脇腹を示された。この顕現を体験することで、弟子たちは復活の証人となりました。ところが、その瞬間にトマスは同席していませんでした。後ほど聞いたトマスは自分の目で見るまでは決して信じないといった。8日の後、同じく弟子たちは潜んでいました。この日はトマスも同席していました。そこに再び主が現れました。今度は、トマスに手を見せ、「見ないで信じる者は幸いである」との言葉を残しました。 この逸話は、「疑い深いトマス」として、ネガティブな評価を受けてきました。この評価は変わることなく語られています。しかし、現実のこの社会は、実証主義に変貌しました。科学的に検証されないものを信じてはいけませんと学校で教えられるようになりました。常識では考えられないことはしっかりと疑うことが常識となりました。筆者は、「疑え」という学校の教えと「疑うな」という教会の教えの間に矛盾を感じて永らく自問自答していました。  結論として、主の教えは「確固たる主観をもちなさい」となると思い至るようになりました。つまり、見える見えないは客観的な評価です。信じる信じないは主観の領域にあります。見ないで信じるとは、客観に惑わされずに主観を信じなさいということになるでしょう。これは神さまだけに通用する特別な論理だが、確かに説得力はあります。 少し込み入った説明をします。「見ないで信じるもの」は幸いである。といわれています。この場合、客観としての「見る・見ない」と主観としての「信じる・信じない」のバリエーションがあり、四つの場合が想定できます。「見たから信じる」「見たのに信じない」「見ないで信じる」「見ないで信じない」の四通りです。こうすると問題点がすっきりします。まず「見たから信じる」のは、当たり前といえば当たり前です。そのためにイエスさまも復活顕現されています。強いて揚げ足をとれば、「見た」とは客観的に証明されたのですから、信じるまでもなく事実でしょう。「見たのに信じない」とは、イエスさまが活動中にしるしを示しても納得しないで、更なるしるしを求めるファリサイ派等の人たちです。決して褒められません。「見ないで信じる」ことこそ求められています。なにより復活のイエスは期間限定で、以降は現れません。現代の私たちこそ見ないで信じるものなのです。「見ないで信じない」は論じようがありません。以上の分析から「見ないで信じる」とは「確固たる主観をもちなさい」との結論に至りました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA