5月22日「父のみもとに行く」

 復活節も残りが少なくなりました。次週は昇天日となりイエスさまが天に昇られます。このことを称して「父のみもとに行く」との主題となりました。日本語的にはまるで亡くなるかのような印象を受ける言葉ですが、イエスさまは既に十字架上で死んでおり、復活後の姿は死にません。そのままの姿で天に昇り「父のみもとに行く」のです。 単純な疑問ですが、なぜ父のみもとにいくのか? 答え①もともとの居場所に戻るだけ ②人類を裁くため ③人類の執りなしのためといろいろ考えられてきました。①はヨハネの黙示録に子羊(イエスさま)の礼拝場面があります。②はいわゆる最後の審判で、苦悩に満ちる姿です。③は本日のテキストとして、創世記から、アブラハムがソドムのために神さまに取りなす姿が描かれます。 アブラハムの執りなしの姿を確認します。この際、50名の善人がいたら、から始まって、45名40名30名20名10名と、合計6回も神さまから条件を引き出しています。食い下がるアブラハムと、これに応じる神さまの姿が印象的です。 余談ですが、この後の場面を映画で見ました。家に帰ったアブラハムが妻のサライに「さすがのソドムでも10名ぐらい善人がいるだろう」というとサライは「数えてご覧なさい」と答えます。そこでアブラハムは具体的に名前を挙げて「○○ならどうだろう」という度に妻のサライは「こんなに悪いことをしている」と答えます。最後にアブラハムが「10人もいない!」と叫んだ習慣に火の玉がソドムを襲う。というものでした。現代人に純粋な善人は説得力がないようです。 私は、それだからこそ神さまの忍耐について興味を持っていました。出エジプト記は民のわがままとこれを忍耐する神さまという構図で読めます。イエスさまの昇天後も、とっくの昔に神さまがこの世界を滅ぼしても納得できるほど悲惨な出来事は続いてきました。 神さまの忍耐が臨界に近づくほどに主イエスがアブラハムのように、その足下に跪いているのでしょう。それこそが、昇天後のイエスさまが天上世界で行っている真の姿でしょう。神さまの前に土下座をして、人類に50名のといいながら、引き留める姿です。2,000年も継続されているのです。ちょっとユーモラスな気もしますが「なるほどそれはありがたい」と感謝の念に駆られます。 イエスさまの最後の審判の姿も良く扱われる主題ですが、一人ずつ言い訳を聞きながら、アウシュビッツの関係者に正しい裁きを説得するのは、原爆の関係者の罪をどのように配分するか、等々考えると無理がありそうです。 ウクライナの紛争を取り上げるまでもなく、人類の犯してきた悲惨な出来事に対して、イエスさまは超人的な忍耐力でもって神さまに取りなしてくださっています。ありがたいですね。

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