5月8日「キリストの掟」

今は、復活節です。イエスさまと共に過ごせる時間も残りわずかとなりました。イエスさまが生涯を掛けて教えてくださった「教え」をまとめることが求められます。それが「キリストの掟」ということになるでしょう。 イエスさまの教えとは、神さまを愛することと隣人を愛することの二つにまとめられます。そして、この二つは旧約聖書全体のまとめとしても通用する内容です。神を愛することも隣人を愛することも、具体化すれば幅広く展開する事柄となってしまいます。受け止める人によってさまざまな理解が可能です。あえて、しいて、私なりにまとめてみました。いずれも「自分が」という自我を抑えるところにあります。それほどまでも、人間は自我が強く、どうしても「自分が」という思いが出てきてしまいます。 かつては、この「自分が」という思いを超えることが勧められてきました。「自己犠牲」ですね。他者のために自己を犠牲にすることが尊いとされてきました。しかし、この考えを他者に強要する社会(ひとたち)の迷惑も話題になっています。最近(?)の流行語に「善意の搾取」という言葉まで現れるようになりました。程度や加減がたいせつなのでしょう。今風には「自己肯定感」を保てるような工夫が必要です。 本日の聖書テキストは隣人愛の実践として、「落ち穂拾い」の規定が選ばれました。要約すると「収穫の際は社会的弱者のために落ち穂を拾い尽くしてはいけません」ということです。私自身は物心がつくころには、「落ち穂を拾っても生計は成り立たない」と思ってしました。落ち穂程度では、人は救えないだろう、飢餓の克服には届かないと馬鹿にしていました。確かにそれはそうでしょうが、最新の統計によると、飢餓人口は増加しています。その飢餓の最大の要因は「紛争」といわれています。更にその他の要因を加味しても、「みんなが真面目に働いて食糧を増産すれば」飢餓は克服できる話のようです。つまり、貧しい他者に「落ち穂」を譲る程度で、賄えるのかという問題設定ではないということです。人と人が争うから飢えるのであって、主の教えに従って分かち合えば、「落ち穂を拾い尽くしてはいけない」という程度の配慮で問題は解消するようです。 この程度なら、提供する側に「自己犠牲」を強要することなく「自己肯定感」を持たせることができそうです。持続可能な「隣人愛」に励みましょう。

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