6月26日 「悪霊追放」

 勧善懲悪という言葉があります。善を勧めて悪を懲らしめるという物語の王道パターンです。人気の時代劇や子ども向けの童話、ヒーローものの特撮など至る所にあります。「オオカミと三匹の子豚」は解りやすい例です。最終的には悪いオオカミさんが殺されてしまいます。一時期、「殺されるオオカミさんがかわいそう」とか「幼児向けにしては残酷だ」という批判が相次ぎ、オオカミさんと子豚さんが仲良くする結末も多用されました。ところが、肝心の幼児からクレームが挙がりました。オオカミさんが生きていたら、怖くて夜に眠れなくなる、とのことでした。最近では、あっさりと殺されるようになりました。ただし、聞き手の子どもたちが成長し物語の結末に疑問を感じた時点で、卒業、読み聞かせる必要がなくなります。こうして成長し、社会の現実を知る大人たちには、善悪を簡単に二分する物語は面白くありません。悪役がどうして悪に染まったのか、どこまで悪なのか、善なる心がわずかでも残っているのか、等々微妙な心理な変化を求めてしまうのです。最近は、そこでの加減が、善悪のコントラストが強いほど幼児向け、  微妙なほど大人向けと分類されるようになりました。  その視点から、聖書の悪霊を見てみると、不思議なことに気付きました。善悪のコントラストは強烈です。イエスさまの圧勝だから。しかし、人間が関与して、人間の立ち位置は悪よりひどいところになりそうです。勧善懲悪の物語は基本的に善>人間>悪の順序で人に善となるように促すものです。ところが、聖書では善>悪霊>人間の順序です。悪霊はイエスさまの正体を知っていて、その命令に従います。人間はイエスさまの正体に気付かずに、十字架に挙げてしまいます。 まあ、悪霊をやっつけるイエスさま=かっこいい、で終わってしまうと幼児向け。悪霊より人間が怖いと思えたら大人向け、結構層が深くて、難しくできています。イエスさまに助けてもらいたいですね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA