10月30日「保存の契約(ノア)」

  教会の暦が変わりました。降誕前に入りました。今日からアドベントまでは、神様について学ぶ期間です。 最初の主題は「創造」です。神さまの創造のみ業について記しているのは、創世記だけではありません。旧約聖書のあちらこちらに散らばってあります。今日はその内のヨブ記が選ばれました。ここでは、神の創造のみ業の大きさを、人間のサイズと比較して、思い上がらないようにと注意を促しています。 続いて、使徒言行録では足の不自由な人をパウロが癒やすお話しが選ばれています。足を癒やす力もまた、創造の力です。ところがリストラの人々が、ゼウス(ギリシア神話の神々)だと誤解をしてしまいます。これに対してゼウスは偶像であり、神様は生きて働かれる方だと、パウロたちは説明しています。 福音書では、野の花の箇所が選ばれています。私たちが心奪われる金品(物質的財産)は大したものではない。命を与えてくださる神様に心を向けましょうと勧められます。 近代の物理学を発展させた一つの議論を思い出します。「決定論的宇宙」というものです。もし、高性能なコンピューターがあって、ビッグバン以来のすべての原子が計算されたら……というものです。運命にすべてが支配されているというわけです。宇宙論ではその後不確定性理論やカオス理論が登場し将来を予見することは不可能だと理解されるようになりました。パウロのいう偶像が動かないものとなり、運命となるように思いました。生きて働かれる神様に「将来が予見できる」などといったらヨブより厳しく叱られると思います。 神様は天地創造の日以来、世界を創りっぱなしにはしておきません。欠かさずメンテナンスしてくださいます。最大のメンテが、イエスの到来です。楽しみながら過ごしましょう。

10月16日「執り成し」

 人間には罪があります。一方、神様は完全無欠です。そこで、罪のある人間が神様に許してもらうために、「執り成し」が必要となります。もちろんイエスさまの役割なのですが、聖霊降臨節(イエスさまが天に昇り聖霊様が教会のお世話をしてくれるとき)には、異なる対応となります。聖霊様が取り次いでくださります。 さて、本題に入る以前に、罪について確認します。罪には神様に対する罪(sin)といわゆる犯罪(crime)の別がありここでは神様に対する罪(sin)が問題になります。 そして、神様に対する罪(sin)をヘブライ語では「的を外す」という意味があります。心の向きががほんの少し神様からずれてもそれは罪(sin)です。ですので、心の向きを元に戻すのが「悔い改め」となります。いわゆる犯罪、刑事犯とは全く異なる次元のお話しです。 ところで、私の長女が3歳の時に替え歌を歌っていました。童謡・ちょうちょの節で「えーやんか」繰り返していました。翌日は童謡・森の熊さんの節で「まあ、ええか」を繰り返していました。まあ、ようするに「えーやんか」は許しを請う讃美歌であり、「まあ、ええか」は許しを与える讃美歌でした。(注意:関西弁です)そうですね、キリスト教の幼稚園ですから、「ごめんなさい」には「ああ、いいよ」と返事することが決まっています。 そこで、主日礼拝の構造ですが、この「ええやんか」と「まあ、ええか」の繰り返しになっています。 つまり、礼拝を守ることが執り成しになっている(許しにつながる)ということです。 私たちは毎週、礼拝をとおして、神様に「ええやんか」と許しを請い、神様から「まあ、ええか」と許され、安心して次の一週間を過ごしています。今日も「まあ、ええか」と許されたので、安心して帰りましょう。

10月9日「苦難の共同体」

 初代の教会のメンバーは、たいへん苦労をしていました。そこで、聖書の中の苦労話が選ばれています。 旧約聖書は、創世記からヤボクの渡しの場面が選ばれました。ヤコブは族長の一人ですが何かと問題の多い人物です。計略をもって、兄エサウから、長子の特権や特別な祝福(たぶん財産の相続権)を奪ってしまいました。この件で兄を怒らせたヤコブは兄から身を隠すために、母の実家へと身を寄せます。その地で成功し財産を作ったのですが、居心地が悪くなり、生まれ故郷へ帰ってきました。このヤボクの渡しが生まれ故郷への境目となります。ここでヤコブは兄エサウが怖くて川を渡れなくなってしまいました。(まだ、エサウが怒っているかもしれません。)まず、家畜も財産を先に渡しました。次に家族を渡しました。最後に一人残ってしまいました。そこに匿名の神様が登場し、格闘の末、勝ちをヤコブに譲って退場します。要するに励まして祝福してくれたのです。勇気を取り戻したヤコブは、兄と再会を果たして、関係を回復しました。めでたしめでたし、です。 どんなに困難でも、何かしら神様が助けてくれます。あきらめずにがんばりましょう。というおはなしです。 

10月2日「キリストに贖われた共同体」

 「贖う(あがなう)」は特別な日本語です。キリスト教用語といっても良いぐらいの言葉です。意味は「奴隷を対価を払って買い戻す」となります。 当時の奴隷制度ですが、自由民は「自由」を持っています。この「自由」は売買可能です。自ら「自由」を売ってしまうと奴隷になります。現実には、戦争に勝った物は勝者の権利として、敗者のすべてを奪います。命も奪えるのですが、売った方がお金になります。そこで、敗者を「奴隷」として売ります。こちらが大半でした。債務の結果奴隷となった者ですから「債務奴隷」と呼びます。 何れにしても、この「債務奴隷」は対価を払えば誰でも買い戻すことができます。例えば、奴隷が畑作をするときに、収益を主人と分け合うなら、自分のお金ができます。このお金を貯めることができれば自分のお金で自分を買い戻すこともできます。が、これはその奴隷自身によほどの才覚がある場合に限られます。また、主人が何かの記念や自分の遺言として奴隷を自由にすることもできました。こちらには「運」が必要ですね。 初代のキリスト者には、ローマ市民以外が多いものですから、例えば女性(主人の所有物)、属州民(戦わずにローマに負けた者)、債務奴隷(戦ってローマに負けた者)が中心となります。いずれも、精神的には負い目を持っていたでしょう。 この人たちをひとまとめ(共同体)にして、その負い目を取り去ってくれる(贖ってくれる)のが神様ということになります。言われた側は、どれほど嬉しかったでしょう。 ちなみに塩野七生さんは、今の日本で債務奴隷はサラリーマンが最も近いといっています。例え、借入金がなかったとしても、自分で働くしかありません。確かになるほどです。

9月25日「奉仕する共同体」

 共同体とは教会のことで、目的語は神様です。神様に奉仕する教会について学びます。旧約聖書からは、ヨベルの年が選ばれた。7年に一度債務を帳消しにするというものです。これがはたして実現したのか、という点について可能だったのかは異論があります。それでも、考え方としては、全知全能の神は、イスラエルの民に対して十分な恵みを与えてくださっています。そこには借金をするものなどいないはず。例えいても貸し手にはそれを帳消しにできるだけの恵みが与えられているでしょ。つまり、「やればできるでしょ」ということだと思います。 パウロ書簡では「惜しまず与えなさい」という教えが出てきます。これは私が経験したことだが、他者や他教会への献金をすればするほど、実入りが増えるような気がしています。帳簿をつけたわけではないから厳密には言えませんが、それでも確かに「情けは人のためならず(巡り巡って自分に良いことが帰ってくる)」のはその通りだろうとおもいます。 最後にナルドの香油が紹介されます。元統一教会の多額の献金が社会問題にされているので、言いづらい側面もあります。それでも、主に献げられた献金にクレームをつけてはいけないと信じます。価値を見いだすのも、額を定めるのも、献げる当人の自由意志でしょう。気が済むまで見守るのが正しい対処でしょう。確かに、家族の共有財産とか、遺産をあてこんでいるとか、いろいろと耳にすることがもあります。そこは家族でよく話して欲しいと思います。

 それでも、なんでも教会は神様の栄光を表すところです。例え現実には厳しくとも、そこは知恵を絞って豊かに見せましょう。万に一つも、「お金がないから」とは、口にしてはいけません。

9月18日「生涯の献げもの」

 ニュースによると、安倍元総理を射殺した犯人に同情が集まっているそうです。その理由が、元統一教会が過剰な献金を求めた結果、犯人の一家が離散したという不条理(息子に当たる犯人にはなすすべも無かっただろう)に対する怒りだったからです。だからといって犯人を許すこともできないし、安倍元首相にもお気の毒としかいえません。ですので、2デナリを献金した寡婦に対して、全財産を献金したことが誉められるという記事には、いろいろと思わされます。 私たちの神様は、天地万物を創造された方です。この世のすべては被造物です。私たちが所有者として権利を主張できるのは、あくまでも被造物同士の話し合いの席だけです。神様を前にしたときは、すべては神の所有物という姿勢が求められます。 その神の所有物のほんの一部が私たちの手元にあり、これによって日々の生計が立てられています。ですので神に対して感謝を献げるのは当然のことです。もちろん、多いに越したことはありません。 ところが同時に、被造物同士の間には所有権が発生します。無遠慮に多額の献金を献げたり、家族の所有物を無理矢理取り上げて献げるという行為は決して認められません。 そもそも論になりますが全知全能の神様がそのように物欲にとらわれているという、統一教会の教えや指導は明らかに間違っています。それこそ、「教会は神様のめぐみが満ちあふれるところです」といいきって、高楊枝を気取るぐらいが、ちょうどいいと思います。教会にしても、個人にしても、お金はちょっと足りないぐらいが、人間は思い上がらなくてちょうど良いと思います。 

9月11日「最高の道」

 「最高の道」というのは、神様に従うのに最高(最も良い)方法ということになります。私たちキリスト者は、ユダヤ教や旧約聖書の価値観の延長線上にいます。ですからここでの基本は「十戒」というものになります。 そこで、私が幼稚園でいつもいうセリフです。「十個の約束は覚えるのがたいへんです。そこでイエス様は二つの約束でいいよと言ってくれました。」ということにしています。 多分に生意気な言い方になります。お許しください。道徳や倫理について、細かい規定がある方が悩まなくて良い、という人がいます。もう一方に、基本原理・原則だけ解れば良い、細かい部分はその度に考える、という人もいます。それぞれ自分のタイプを理解して、合わせていただいたらと思います。 それでも時代や状況に応じて細かい規定は変化します。基本の原理は大切にしてまいりましょう。 その1:神様はいます。リスペクトしましょう。その2:人間は人との関わりに生きています。大切にしましょう。ぐらいまでは、要約しても許されます。 私たちが信じているのは生きて働かれる神様です。その神様が精いっぱい働いて私たちを守っていてくださいます。できるだけ、神様の御旨にかなうように。もしできなかったときは、素直に謝れるように過ごしたいものです。

9月4日「すべての人に対する教会の働き」

 キリスト教はすべての人に働きかける普遍宗教です。もっとも、キリスト教はユダヤ教から派生しました。その実態は「追い出された」のです。その当時の恨み辛みが、聖書にも他の文献にも残っています。 ローマ帝国は、皇帝が祭司を務める宗教がありました。ユダヤ教も公認されていました。キリスト教も最初はファリサイ派やサドカイ派のようにユダヤ教の一派とされていました。がユダヤ教からから排出された瞬間は、ローマ帝国の非公認宗教になってしまいました。ローマ帝国公認の保護される存在から、迫害の対象とされました。事実なんども迫害の憂き目に遭いました。そのため、最初のキリスト教はローマ帝国に対しても批判的でした。 とまあ、四面楚歌的なキリスト教でしたが、いつの間にかローマ帝国の国教に、そしてローマが滅んだ後も信仰は存続していきます。いつしか世界宗教へと広がりました。そして、信じる神様は「天地の造り主」ですから、救う対象は「すべての人(但しユダヤ人を除く)」という時代を過ごします。 私見ですが、」第二次大戦後、ホロコーストの悲惨さに反省して、キリスト教の神様は「すべての人(ユダヤ人を含む)」に変わりました。すべての人の定義はいろいろあると言うことです。  歴史を反省することはとても大切なことです。特に悪い歴史は丁寧に学んで、ダークサイドに落ちないように注意しましょう。 

8月28日「新しい人間」

 まず、「新しい」という表現ですが、これは2,000年前に新しくなったという過去完了形です。以降そのままずっと2,000年前の新しさが続いているということです。最近のとか最新のという意味では決してありません。 この「新しい」がどれほど画期的かというと、ユダヤ教という民族宗教が、キリスト教という普遍宗教に変換したということでしょうか。全人類が絶対的な唯一の神をイメージすることで、大きな変革をもたらせました。 私の個人的な意見ですが、全宇宙の森羅万象がたった一つの方程式で言い表せる(ニュートン)なんて、とんでもないことだと思えます。 もしかしたら、地球上のすべてをたった一人の神様が統べているから、マゼランは地球一周する気になったのかもしれませんね。 譬えが少し大げさだったかもしれませんが、旧来の束縛から解き放たれて、自由になるというメッセージは、本日の主題に合致するでしょう。 ところで、古いしきたりや価値観を守ることを「コンサーバティブ(保守)」といいます。一方、古い考えにとらわれないで変革を進めることを「リベラル(自由)」 といいます。近年のことですが、生まれたから「リベラル(自由)」 な教育を受けたけれども、どうも物足りない、やはり「コンサーバティブ(保守)」が良いと方向転換した人たちがいます。新しく保守になったということで「ネオコン」と呼ばれます。  特に組織やグループに属しているわけではありませんが、私自身は「ネオコン」と自覚しています。「リベラル」な教育を受けたものですから、よほど調べないと「伝統」にたどり着けません。それでもをすれば勉強すれば、なるほどと思うことも多くあります。勉強になりました。結局、リベラルは物事を新しくするといいます。これは古いものを壊すことにつながり、壊れてしまうと復活できません。「新しくする→壊す、無くなるはほんの一瞬」という図式となり、これでは無秩序になってしまいます。しかし、古いものを一生懸命勉強しますと、世の中を良くしようとして生まれたことが解ります。そしてそれは良いものだとたくさんの人が守り、長い歴史を経てきたものとしての安心感が伴います。「保持する→すごく長い時間たくさんの人が努力した、どこが良かったのか興味がある。価値を理解したい。」という図式になります。壊すのはいつでもできる簡単なことです。保つのは難しいことです。だからこそ、伝えられたことを守り、伝えていくことが大切になってくると思います。保持するといっても、人は変わるのだから、そこには何らかのアップデートが行われ、よりよいものになるということです。

8月21日「家族」

 創世記では、「人は一人でいるのは良くない」との神様の配慮が示されています。一般に社会を形成する最低の単位を「家族」と表現しています。ですので、旧約聖書の家族は実際には部族ぐらいの単位になるでしょう。そして、古代社会の家父長のくくり形でも、現代の家族という括り方でも、常にこの括り方を広めにとるようにというのが聖書のメッセージです。少しでも家族の輪を広げて、みんなが助け合う社会にしたいという思いです。安息日律法では、男女の奴隷、家畜、寄留の民まで安息日を保証しろといいます。イエスさまは、赤の他人の幼児まで受け入れて祝福の対象としています。時代や価値観によって家族の括り方は色々でも、その価値観そのものを批判することなく、少しでも広く家族と認識して、神様の恵みを分かち合うようにということです。 時々見かけますが、人類全体(会社や社会)の幸せのために家族を犠牲にするという、二択を迫るようなことはしてはいけません。何よりもまず自分自身であり、次いで家族、そして家族の枠を広げながら、究極には全人類となります。  統一教会では、現教祖を「マザームーン」と呼び習わしている。家族という呼称を使うところが、煩わしく思えます。キリスト教会では、マザーと呼べばマザーテレサであり、~ムーンとはシスタームーンでアシジのフランチェスコとっても偉いお坊さんを示します。もっと、ブラザーサンと対に使います。太陽を父として、月を母として神様の創られた世界すべてが家族です、というぐらいの意味です。旧態依然とした家族制度を乗り越えようというメッセージです。お前たちは子どもなんだから、生活をないがしろにしてでも、献金しましょうとは異なります。似せてくるところが気持ち悪いといえます。