12月22日「告知Announcement」

アドベントの第四週は、神の御子の御降誕を告げ知らされた物語が読まれます。In the fourth week of Advent, a story is read that announces the birth of the Son of God.私たちの倶知安伝道所、めぐみ幼稚園にも良い事があったのでお知らせします。We will let you know that our Kutchan Mission and Megumi Kindergarten also had good things. 私たちの敷地は、囲繞地であり瑕疵物件と呼ばれる状況にありました。Our site was a surrounding area and was called a defective property.この度道道ニセコ線沿いの家屋を購入することができました。This time I was able to buy a house along the road Niseko.これで、表通りに接する土地になりました。The site is now in contact with the street.加えて、今まで所有していた土地も、表通りの価格に評価されるので、含み資産ですが16,500万円ほど上昇したことになります。In addition, the site owned so far is also valued as shown in the list, so the unrealized assets have increased by about 165 million yen.素直に単純に喜びたいと思います。I simply want to be happy.重ねて、自信を持ってこれからの活力へとつなげたいと思いました。Again, I wanted to confidently connect to the vitality of the future. キリストの降誕は、人類史を二分する出来事だと理解されています。The birth of Christ is understood as an event that bisects human history.それは単に、ナザレの町に、風変わりな人物が生まれたことでした。It was simply a strange character born in the town of Nazareth.当時の歴史家には見過ごされた事でした。That was overlooked by historians at the time.それが、歴史を変えてしまいました。That has changed history.  この町倶知安も激動の時代にあります。This town Kutchan is also in a turbulent era.外国資本が入り、外国籍の人が町を闊歩し、地価が3~4倍に上がります。Foreign capital comes in, foreigners walk around the town, and land prices rise three to four times.高齢者は町を出て行きます。The elderly go out of town.地元の人たちは、変化の大きさにとまどっています。The locals are astounding in change.世界中の富裕層が訪れてくれます。Wealthy people from all over the world visit.彼らが求めるサービスには、それを裏付ける教養も求められます。The services they seek also require the culture to support them.地元の人たちが、この求めに答えようとしたときに、教会やキリスト教が、注目されるのではないかと期待しています。We expect that churches and Christianity will be noticed when locals try to answer this request.

12月8日「旧約における神の言葉」

香港の民主化デモが天安門事件(1989年)の再現とならないかとやきもきしながら過ごしています。I’m spending time hoping that the democratization demonstration in Hong Kong will be a reproduction of the Tiananmen incident (1989)そのような中、香港区議会選挙で民主派が圧勝したとのニュースを見ました。In such a situation, I saw news that democrats had won the Hong Kong parliamentary elections.You Tubeからの情報ですが、習近平が、中国国内の批判的な声を粛正しすぎて、客観的な状勢を語る者がいなくなったといわれています。Information from the You Tube, but Xí Jìnpíng, too enforcement the critical voice of China, it is said that those who talk about the objective Josei is gone.その結果、中央政府に忖度した意見ばかりになって選挙の動向を読み誤ったのだろうといわれています。As a result, it has been said that they may have read the election trends incorrectly, leaving only the opinions that were based on the central government.中国政府はメンツをつぶしてしまいました。これで天安門の再来が少しは遠のいたのかと一安心です。The Chinese government has crushed honor. I am relieved that the return of Tiananmen was a little far away.  本日の旧約テキストは、イスラエル南北両王国が対外戦争を始めようとしていました。In today’s Old Testament text, the Israeli North and South Kingdoms are about to begin a foreign war.国中の預言者を集めたところ、ほぼ全員が王に忖度して戦勝を予測しています。After gathering prophets from all over the country, almost everyone predicts victory against the king.反対意見をあえて探したところ預言者ミカヤが呼ばれることになりました。The prophet Micaiah was called when he dared to find his opposition.神に従う(忖度しない)預言者ミカヤは、自国の滅亡を預言してしまいました。というお話しです。The prophet Micaiah who obeys (does not guess a man) God has prophesied the destruction of his country. It is a story.  預言者たちの言葉は、批判的なものが多く、耳に痛いものです。逆に聞き心地の良い話しは偽預言者のものです。The words of the prophets are often critical and painful to the ears. Conversely, pleasant stories are those of false prophets.御言葉に耳を傾けるのは、聞く側の主体性が求められます。しっかりと聞き従いましょう。Listening to the word requires the initiative of the listener. Listen carefully. 

12月15日「先駆者」

 今年は、天皇の代替わりということで様々な行事が執り行われています。私は、ニュースを見ながら、旧約聖書に記される古代中東の「王の即位式」と比べていました。特に先日行われた「祝賀御列の儀」にて天皇陵陛下の乗られるオープンカーの直前に誰の車が来るのか注目していました。安倍首相、と管官房長官でした。この二人の立ち位置、役割が本日の主題、王の到来を告げる「先駆者」を表すものです。  当事者は否定するかもしれませんが、宗教学的な見地からすると、天皇=王、首相=先駆けという構図が読み解けます。  王制という制度や、権限、役割は種々の立場からいろいろ意見はあるのでしょう。イエスを「主」と呼び(奴隷制)「King of kings」(王の中の王、皇帝)と呼ぶのが私たちの習いです。穏やかに受けとめたいと思います。  王であるイエスさまには「きっと先駆けがいたはずだ」と当時を振り返ると、バプテスマのヨハネという先輩がいました。後にユダヤ当局に目を付けられて首をはねられるという不名誉も、十字架刑の先輩です。水による洗礼も、キリスト教に引き継がれます。神学的にも評価できます。種々、充分な働きをしていることから「先駆者」と呼ぶことになったと思われます。  教会暦に戻ります。先駆者が現れたら、次にやってくるのは王様です。主の御降誕まであと僅かですよ。楽しみながら過ごしましょう。

12月1日「主の来臨の希望」

 アドヴェントを迎えました。降誕日の4週前から、主をお迎えする準備が始まります。この日から教会もクリスマスの飾り付けが始まります。本日与えられた主題は「主の来臨の希望」です。 主とは神さまを指します。キリスト教では神さまを主と仰ぐのが基本です。来臨は「来る」を丁寧に言い表したものです。ですから、神さまがやってくるので希望をもちましょうという意味となります。アドヴェントの第1週は毎年この主題が語られます。ところで、イエスさまは2,000年前に来られました。そのことから来臨に二通りの意味が派生します。一つは「2,000年前の待ち望むという気分を楽しみましょう」ともう一つは「主の再臨(この世の終わり)に希望を持ちましょう」の二つです。前者は判りやすいのですが後者は誤解を招きそうですね。 論理的に言い切ってしまいますが、「将来に希望を持つ」とは「現状に不満がある」ということと同義になります。それはどのような不満かといいますと、ヨハネ福音書の書かれた時代はローマ当局から迫害を受けていました、ローマの国教と認められた頃はゲルマン民族の襲撃を受けていました、もう少し時代が過ぎるとイスラムに追い詰められていました、宗教改革の時代はクリスチャン同士がお互いに、近代に入ると、帝国主義、独裁制、共産主義、etcといろいろな聞きの時代が続きました、常に不満がありました。今現在は、信仰の自由が保障され迫害はなくなりました、しかし世俗主義(神さまがいなくても平気という考え方)に教会が押しやられていると言えそうです。  教会は「いつも希望を持ちましょう」と語り続けてきました。これは「きっと、いつの世にも不満をお持ちの方はいらしゃるでしょう」という意味です。もちろんその不満の解消は、平和的にと勧めています。暴力的な改革革命は勧められていません。ゆっくりと、時間をかけて変わっていきましょうと語ってきました。 クリスマスが近づいています。やはり神さまはいるのです。その神さまは私たちを見て、友だちになりたいと願いました。万能でありながら不器用な神さまは、その独り子をこの世界に送ってくださいました。しかもそれは赤ん坊の姿で(なんて不用心!!)。どうしてこれがうまくいったのかは永遠の謎です。だからこその希望なのです。神さまのお働きに思いを寄せて過ごしましょう。

11月29日「王の職務」

 クリスマスは新しい王の到来をも意味している。聖書では、キリストの十字架の罪状書きには、「ユダヤ人の王」と記されている。ヘンデルの名曲は「king of kings」と歌い上げている。毎年、「王」について考えることになっている。一般人がイメージしている、おとぎ話の王様ではなかなか理解がたどり着かない。少なくとも、古代中近東の王、中世ヨーロッパの王、近世の立憲君主制の「王」、新憲法下の「天皇」を意識しながら、民衆がどのように受け入れてきたのかを考察する必要があるだろう。そこまで詳しく語れないが、一般に、王の職務とは「食糧の確保」と「治安の維持」といわれている。もし王が専制的にふるい、それが度を超すと臣民が夜逃げしてしまうという構図は古今東西共通するようだ。満足に食えないと王といえどもギロチンにかけられてしまう(フランス革命)。日本では早くから(鎌倉時代)から、王の職務はまつりごと(祭り事)に限定され、実際の政治は武家や官僚が担ってきた。これはとても優れたシステムで、天下を揺るがせる政変が起きても(明治維新等)権力を有するものが交代するだけで、「クニ」としての権威は保たれる。国の民は一つのよりどころに集まることができた。国家安泰の礎となってきた。世界中の王家からも、国民に選ばれた王(大統領)からも、暴力で勝ち得た王からも尊敬を受けている。 今年は天皇家の代替わりで、多くの儀式やお披露目が行われているが、その一つに大嘗祭が行われた。大嘗祭とは、王の職務のうち「食糧の確保」を目指すもので、一代で一度だけの大きな行事である。そして私が気になったのはその手段である。日本の天皇家は「祈り」をもって食糧の確保を目指し、それが国民に広く受け入れられていることである。  うろ覚えの世界史を紐解けば、人類は、穀物が栽培されて初めて余剰食物を手に入れることができた。およそ、紀元前6,000年頃といわれている。そして、この時から貧富の差が生まれ、権力者が余剰食物を独占し支配の根拠とした。この権力者が「食糧の確保」する手段は、武力による強奪や他地域の占領というイメージを持ってしまっていた。祈りが主とは習わなかった。  ところが、落ち着いて考えてみれば、余剰食物は、まず祭司を生み出したのではないだろうか。なぜなら、大規模農業となるので、多くの人をまとめなければならない。それは「暴力による収奪」よりも「祈りによる分配」のほうが耕作には向いているようだ。「天皇」が権力から離れているのは、ある種の必然と思える。この国においてはそうだったのだろうと思えてしまう。詳細な議論はできないが、平和な世界を思ってしまう。そこは、神さまの恵みが満ちた地で、キリストの隣人愛を実践するだけで、すべての人が満ち足りて幸せに過ごせるところだろう。  次週からアドベントです。御子の到来を待ち望みましょう。   

11月22日「救いの約束(モーセ)」

 本日の主題は「救いの約束(モーセ)」です。創世記に登場する族長はアブラハム、イサク、ヤコブと続きます。ヤコブの子どもヨセフが紆余曲折の末エジプトの宰相として一族をエジプトに招き入れます。そこから数世代を経て、ヨセフのことを知らないエジプトの王ファラオがイスラエルの民を迫害します。アブラハムに救いの約束をした神さまが昔の約束を果たすために選んだのがモーセです。ですから、神さまが救いの約束を交わしたのはアブラハムです。その約束が果たされたのがモーセという筋書きになっています。  出エジプト記を丁寧に読むと、3章で神さまはご自身をモーセに対して自己紹介しています。神学的にこの自己開示は興味深い(I am who I amなど)ところもあります。しかし、お話の筋としてはモーセを始めイスラエルの全部族は神さまの存在自体を忘れていたので、神さまが苛つきながら自己紹介をしなければならなくなり、内心ほくそ笑んでしまいます。  信仰的な指導として、「神さまは約束を必ず守ってくださる。」とお勧めするべきところですが、不信心な私は「全部族が忘れた頃にやってこられても‥」と、ついつい思ってしまいます。 もっとも、現実のイスラエルの民が国を失ったのが紀元90年でした。再建したのが1948年です。ですから、神さまの時間を人間の物差しで測ってはいけない。ということも踏まえて理解するところでしょう。  とにかく神様は約束を守ってくださる。たとえそれが、なんだかなと思える時間単位であってもです。さらに、信教の自由が守られ、私たちが迫害を受けることがなくなったのは、ほんの200年ほどに満たないことでしかありません。絶望的な時期をキリスト教は何度も何度も乗り越えてきました。必ず救いは来る。その約束は守られてきた。だから私たちは安心できるのだと、改めて思いを深めましょう。 

11月10日「神の民の選び(アブラハム)」

 アブラハムは「信仰の人」と呼ばれています。伝統的にとても立派な人と言われてきました。とにもかくにも、神さまの命令に従う人でした。神さまが旅に出ろといえば、一族を連れて旅立ちます。神さまが子孫繁栄を約束したら、素直に待ちます。やっと得た一人息子を犠牲に差し出せといわれたらその通りにします。(さすがに、この件は直前に神さまからstopが掛かりました。後日談ですが、どうもこの件以来息子のイサクは父との同居を拒んだようです。)それはさておき結果としてアブラハムは神から義と認められました。(旧約テキスト)  だから私たちも、神様の命に従い神さまに選んでいただきましょう。この人の立派な信仰に倣いましょうというのがユダヤ教の伝統です。ですが、それはひたすら盲目的に神さまを信じるべきだという教えに発展しました。後の信仰義認の根拠とされました。(新約テキスト)もっともアブラハムが活躍したのは律法付与の以前なのでそれはそうなのでしょう。  主イエスこそ神の御子であり神そのものだという立場をとるヨハネ福音書では、神の命に従うべきだから、イエスの言葉に従うべきだと主張しています。もちろん、イエスさまを人間だと思っている当時のユダヤ人には受け入れられません。  今日的に、信仰義認という考え方は、律法(明文法)に拘束されないという意味で、自由な活力があると評価されます。一方、信仰のみの主張は、文面がありませんので根拠が不明瞭となり混乱するかもしれません。悪霊の言葉と見分けが付かないという皮肉な意見もあります。ですので、どちらが一方が正しいということではなく一長一短を踏まえて、ひとつひとつ判断を積み重ねていくものだと思われます。言い替えれば、規則やルールはあるけれども、話し合い最後は会議で決定する、ということです。民主主義の基本ですね。もちろん日本は法治国家でもありますので、法に定められたことを気にくわないからといって蒸し返してはいけません。法は遵守しましょう。ルール無視もありえません。その上に、自由に意見を述べて活力のある社会を目指しましょう。

11月3日「堕落」

 教会暦の主題は、「創造」の次に「堕落」が来ます。キリスト教的には人間は生まれながらにして罪人ですから、創造以来間髪を入れずに堕落してしまうのでしょう。  旧約のテキストは、楽園追放の物語が選ばれています。神さまから食べてはいけないといわれた「知恵の実」を食べたアダムとイブがエデンの園から追い出される話しです。悲劇として解されること多いのですが、物語としてとても面白いものです。人間の成長発達から独立へと向かう物語という読み方もできます。(だから面白おかしく読める。)神さまの庇護の元にあったのに、神と同じく成ろうとして知恵を求め、知恵を手に入れると自立が求められるという人生そのものを現しているようです。神は自律を促しています。その証拠に送り出すときには衣服(文化)という祝福が与えられるという読み方です。  もっと素直な読み方をすれば、神さまから「どうして木の実を食べたのか」と問われたときに、素直に「ごめんなさい」が言えたら、こんなことにならなかったのに‥。  等々、いろいろな思いがします。もしかしたら原罪とは人間らしさを意味する言葉かもしれません。だとしたら、厳格に悩むよりも、大らかなおつきあいをしていく方が今日的だと思えます。  

10月27日「創造」

 自然科学の基本法則に質量保存則があります。これは絶対的なもので、「無から有は生じない」とされます。自然科学を前提とした牧師である私はこのように折り合いを付けてきました。質量保存則は神さまが作られた規則です。だから、神さまだけに無から有をつくる業(天地創造)ができます。被造物には無から有の業は許されていません。 ところが現代貨幣理論(MMT)によると、銀行と国家は現金を生み出す(創造する)ことができるそうです。この理論は、話の筋(合理性)という意味では正しく思えます。しかし心情的に納得がいかないという側面も持っています。まあ、貸し方借り方双方に数字が発生するのですから、質量保存則的に問題なしといえばそうなのでしょうけれども、その感覚になじみがありません。負の質量を持つ物質が未だに発見されていないからでしょう。物理の世界では反物質は理論的にはあります。時空を超える(ワープ)宇宙船に使われるそうですが空想科学小説の域です。理屈に矛盾はないのですが、心情的に同意しきれません。  MMT学者によると、長期デフレで不景気な日本では、大量の国債を発行して、安定的に景気を底上げする必要があると訴えます。特に公共投資(治山事業や福祉関連の人件費)を長期的に安定して発注して、早急に景気を底支えすることが必要とのことでした。国債増発による債務不履行(デフォルト)は心配いらないそうです。  かといって、土木業者の不正や、不透明な原発事業の歴史を知るだけに、無節操な国債増発に不安が残ります。立場としては、幼児教育や公共の福祉に関しては財源に悩まず投資をして欲しいと思います。  もしかしたら、自分自身がもう新しい考え方について行けなくなっているのかも知れません。難しいものですね。

10月20日「天国に市民権を持つもの」

 新約聖書の中で「市民権」といえば、ローマ帝国市民権を指します。伝道者パウロがローマ市民権所有者であり、ローマ帝国内を自由に往来して宣教したことは有名な話しです。ローマ市民権を持つものが、強盗にでも襲われた時は、「ローマ人を攻撃するものはローマ帝国を攻撃したと認められる」としてローマ軍が襲いかかり犯人をやっつけていました。ローマ世界ではローマ市民権所有者は国家によって守られた存在であった。ここから類推すると、「天国に市民権を持つもの」は、「いつでも何処でも神さまに守られているもの」を意味し、必ずしもローマ市民権を持っていなくても大丈夫ということを意味したと想像される。(古代社会において)さらに、必ずしもローマ市民権を持っていなくても、という条件は、奴隷や属国民など「すべての民」を内包しています。これはとてもラッキーというものでしょう。  ところが、聖書のテキストはちょっと厳しい。士師記ではせっかく集まった兵士達に、様々な条件を加えて数を減らしている。(天国に入るのは難しそう)ヘブライ書ではイスラエルの歴史的な偉人の苦労話が続き、その人達よりあなたたちが幸せといっています。(苦労話が悲惨すぎて…)ルカ福音書では与えられた資本を10倍にして返さないといけないみたいだし(そんな商売が一体どこに?)という厳しいばかりのお話しです。 こんな厳しい条件を付けられたら、守ってもらえないのじゃないかと心配になります。 ということで、この世での苦労は絶えません。でも、安心してください。皆さんもれなく天国(来世)は保障されていますよ。ということになるのでしょうか。  この話にあまり興味のわかないあなたは、現代に生きる人です。経済が豊かになり、この世での苦労が減っています。この世に満足する人は、来世への期待は薄くなるということでしょうね。