9月8日説教「誘惑・試みからの救い」

 主の祈りからこの一節が選ばれています。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」 私たちキリスト者は、神の御旨に従って生きることを志しています。すなわち、常にこころが神さまの方を向くように努力をしています。実のところこれがなかなか難しくて、毎週のように礼拝に出席して、罪の告白をし、赦しを請い願っている。これは守れないことが前提となっており、守れなかったから直行で地獄落ちというわけではありません。きちんと礼拝生活を送っておれば、それほど心配するほどのことでもなさそうですね。  誘惑にちなんで少し神学的な話しをするなら、最も危険な誘惑とは、自分が何でもできる、何もかも自分がなしたとかいう類いの思いを持つこととされている。これを難しい言葉で「自己の絶対化」と呼んだりします。絶対という概念は難しいが、対立する概念としては「相対」を考えると判りやすい。「神の前に私は罪人の一人に過ぎません」という表現は自分を相対化しているといえるでしょう。科学者達が宇宙の成り立ちを考える際にキリスト教のGodが使いづらく「something great」を信じるとされるのも、自己(科学)の絶対化を避けたい気持ちを表しているように思える。  ところで最近流行の言葉に「上から目線」というものがあります。これは批判的に用いられることが多いようです。自己を絶対的な立場と認識し、他者を見下げる物言いをすることにたいする批判のようです。ところが語り手が「上から目線で言われたくない」と話し始めると、この語り手こそが上に立とうとしているのかしらと感じてしまうことが多い。専門家の専門性までも「上から目線」の名のもとに拒否しているように聞こえてしまうこともあります。自分自身が専門職なもので余計気になるのかも知れません。‥常に謙虚に振る舞とは難しいものですね。

9月1日「信仰の証し」

 いつの間にか、私たちの国「日本」では、信仰とは心の中の問題と思われるようになってしまった。本日の主題に初めてふれた方は、「こころの内面をどうやって証し(証明)するのか」とギャップを憶えるかも知れない。 ところがキリスト教では信仰とは「公に口で言い表すもの」で定式化されたいくつかの「信仰告白」が礼拝の中で用いられている。最近の研究によると同じ信仰告白=同じ人間、異なる信仰告白=異なる人間、つまり大げさに言うと人権にまで影響を及ぼすほど大きな問題であったそうだ。(宗教戦争)  今日でも厳密に言えばプロテスタントは「信仰のみ」であり、ローマンカトリックでは「信仰と行為」としてそれぞれに定義が異なるようだ。要するに日本的にこころの内面の事柄としての情緒的な受け止め方とはことなりかなり厳しいものとして位置づけられている。 私たちの日常としてはそこまで厳密に理解することは現実的ではないようだ。それでも、明確に言語化されていることは意識して欲しい。 その結果、信仰の中身が明文化されていることから、その文言がその人の行動を規制するものだ、というと難しく聞こえる。しかし、「神さまを信じます」という人が神を冒涜する行為はしないだろう。「あなたの隣人を愛しなさい」と教えられている人が現実の隣人をないがしろにはしないものであろう。 神さまの性質として「光あれ」との言葉が光となったという天地創造の物語からも推し量れるが、「言行一致」は高く評価される。 現代社会が複雑化しているので、何処までこだわれるのかは、もちろん限界がある。それでも言葉と行いは一致することが望ましいし、例えできなくても何かしらの思いを持ってすごすことが勧められる。  神の御旨に近づけるように務めていきたいものです。

8月25日「主の来臨に備える」

 キリスト教は時間に対して始まりと終わりを想定しています。つまり「始まり」と「終わり」があると考えています。そして本日の主題は終わりの時を意識して緊張しながら過ごしましょうという勧めです。

 ここでいう始まりとは「天地創造」のもの語りで示されます。私は小学校へ上がる前から教会に通っていました。ところが、「天地創造」は学校に上がったとたんに全否定されてしまい、進化論が正しいとされました。もやもやしながらも、なんとなく時が過ぎるうちにビッグバン理論(宇宙(時間)に始まりがある) ことが示されました。(これは個人の内面の話しなので、学年、科目は入り交じっている)天地創造とは異なるが、「始まり」があることを知ってなんとなく安心した記憶があります。

 さて、「終わり」についてですが、始まりと終わりがセットなので、始まりがあったのだからいつかはくるのだろうくらいであまり悩みませんでした。一時期流行したノストラダムスの大予言は鼻で笑っていました。どうやら終末論を強調しすぎると弊害が多いようです。なにせ、この世に、なんとかの予言は無数にありますが、どのような曲解をしても外れてしまうのが「終末」です。当たった試しがありません。「終末論」を盾に将来への備えを無視する教派もあります。年金の積み立て分を献金に回せという教派もあります。教職者の年金を積み立てず、信仰の継承に支障を来す例もあります。(牧師の子弟が親の扶養を拒否する)

 答えをいいますと、主の来臨がいつになるのかは誰にも判りませんということになります。 神という絶対的な存在は、私たちが置かれている時間軸とは異なるところに存在しています。故にその行いを予測することは不可能です。もし、誰かがあなたにだけ特別に教えてくれるという人がいたら、その人は「嘘つき」と思ってください。

もっとも時間が無限にあるからといって、のんびりしすぎるのも問題だとおもいます。たとえこの世の終わり(終末)が遅れているといっても、私たちには限られた時間しか赦されてはいないのです。 神学的に限りある時間の流れとはいっても、歴史的にはざっと7,000年ぐらい数えることができます。私たちの生涯はほんの僅かしかありません。神さまから託された努めを果たして、次の世代に託していくのが本来あるべき姿です。私たちに赦されているのは限られた時間ですが緊張感を持って臨んでいきたいものです。

8月18日「隣人」

 キリスト教は愛の宗教です。「互いに愛し合いなさい」という教えです。強烈な「敵を愛しなさい」もあります。基本は「あなたの隣人をあなた自身と同じように愛しなさい」という教えになります。  愛は抽象的な概念であり、具体的な定義は難しいとされてきた。そこに、マザーテレサが登場し「愛の反対は無関心です。」と定義してしまった。以来、愛とは関心をもつこととなってしまった。キリスト者が「憶えてお祈りします」といえば愛の行為と認められるようになりました。  愛という言葉に自己犠牲をイメージする方も少なくありません。しかし、あくまでも「自分を愛するように」であり、自分を大切にすること(自己愛)のできる人こそがふさわしいように思えます。もちろん自分以外の他者に自己犠牲を求める行為は、論外です。巷では「善意の搾取(強要)」という物騒な言葉が流行しています。教会は、このような誤解を招かないよう注意したいものです。  こうして、自分を大切にできる人が、隣人を大切にして、互いに犠牲を強要しない関係性を作ることが隣人愛の最新の理解ということになります。自らすすんで他者の益になるように努めましょう。しかもそれがWinWinとなるように。必要なめぐみはすでに与えられていると信じながら。

8月11日「神の真実」

 聖書はアブラハムの死と葬りのお話しです。死の様子は「長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」と最高級の祝福を受けたとくくられています。(天国の概念は新約聖書以降です。旧約聖書では満足した状態で静かに過ごすのが理想でした。)更には、最愛の妻サラと共に葬られ、祝福されていることを示しています。  土地の所有に関しては、古代の習慣が反映されています。遊牧民であるアブラハムは、本質的に私有する土地を持てず、定住民から正式に(相場より高く)買い取り、譲渡の証しを残してやっと保障されるようです。たいへんな苦労の末ではありますが、跡継ぎにも恵まれ、安心できるお墓に葬られる。神さまはきちんと最後まで面倒を見てくださるのです。  現代の中国籍の人たちが北海道の土地に投資をするのは、共産圏では土地の私有が認められないからだと言われています。どうやら、中国政府より日本政府の方の信用度を高く見ているようですね。旧約聖書は今日現在の事象を読み解くのにも一役買ってくれます。  ただ、聖書のメッセージは、土地(被造物)にこだわるよりも真の所有者(神さま)こそが、すべてを託するのに値するといっています。  もちろん私たちは自分たちの将来に対して、可能な限り予測して、備えはします。しかし、一旦決断したことは、なんとなくの不安に囚われず、神の御旨に従ってまいりましょう。

8月4日「女性の働き」

 女性の働きという主題のもとで選ばれたテキストは、旧約聖書からラハブのお話しです。彼女は主への信仰を語っているようにみせながら、自分が所属する社会(エリコの要塞)を裏切っている。しかし、同時に家族の安全を求めている。というより、家族の安全を求める余り、主の側に付くことを選んだ。この視点からすると、福音書も使徒書も、家族を守るために主の味方になることを選んだ(と推測される)女性の名前が挙げられている。それぞでの連れ合いである男性(主が反体制とするなら、彼らの多くは体制側である) の所得を献金している。 家族を守る女性といえば、第一に母を思い出す。大正7年の生まれで、戦中戦後のたいへんな時期に、たくさんの家族を養った人物だった。筆者が幼い頃、身のまわりは高度経済成長期で何もかもが良くなっていくのに、その恩恵が我が家に回ってこなかった。(ほんの少し貧しい加減だった)いわゆる子どものわがままで、あれが欲しい、これが欲しいと言ったものだった。このわがままに対する母の答えは「自分はひもじい思いをしながら大きくなった。おまえにはそんな思いを一度もさせたことがない」というものだった。自分が受けた境遇よりも、おまえにはより良い境遇を与えている、ということだった。さすがに「仰るとおりです」としか答えようがなかった。  あらゆる統計を見ても戦後の70年間ですべてが良くなっている。人類発祥以来、終戦当時まで平均寿命は50年であり、あまり変動していない。「自分が受けたよりもより良い境遇を」という母(女性)の働きは結実している。日本の社会全体もその方向性を持っている。  私たちもこれに習いたい、できるならば主の教えに従って、次の世代のものたちすべてに、より良い境遇を残したい。

7月28日「キリストの心」

 キリストは、全人類の罪を一身に担い、十字架にかかられその罪を精算されました。ですから、キリストの心は、全人類が自らの罪が赦されたことを感謝して、互いに許し合うところにあると思われます。  ところが人間の性として、福音書に登場するファリサイ派のように、他者と自分を比較して、より罪深い他者を批判する者がいます。もしくは、自分は何ひとつ悪いことをしていないと主張する者もいます。しかしながら、人間の罪は深く、完全なる神との比較においては、その両者とも50歩100歩に過ぎません。  もっとも、性善説の日本文化の中では、受け入れられがたい教義であることも事実でしょう。そこで、礼拝ではひたすら感謝の祈りが捧げられます。根源的な罪に関してはほぼスルーされるのが現実ではないでしょうか。  なかなか難しい問題を抱えていることは否めませんが、あまりこだわってはいられません。何事によらず日々感謝の念を持って過ごすことが大切なことだと伝えています。  人間が日々営むわけだから、何かしらの不満はあるでしょう、そこを起点に向上心を持つことも良い結果を生むものです。ただ、時と場所を定めて、週に一回は礼拝を守る中で、感謝の念を新にすることはとてもお勧めです。

7月21日「生命の回復」

 私たちは、生命を神様からいただいたもの、神さまは意思を持ち、命を与えて取り去る、という教義を受け入れている。ところが、現実の社会では、生物学的な死は不可逆であるとされている。とりあえず、この矛盾に答えるところから、話を始めたい。  神さまは全知全能である。故に、生き返らせることができる。聖書の記述はそのことを示している。もっとも神さまにはできるが、人にはできないことである。人に生命のやり取りは不可能です。というスタンスをとりたい。この教義の大切なところは、生命を人の自由にしてはいけない、というところにある。キリスト教価値観では、総べて生きとし生けるものは、神から生命が与えられている。それはとても尊いもので、おのおのが尊重される。一つの帰結が自死の禁止であり、その他生命倫理の根幹を規定する。  時として幼児は「自分なんかいなくなれば良い」という類いの、表現をすることがある。このようなことを冗談にも口にしてはいけないことを説得するためにも、この教義は有効である。  また、生物学的な死以外にも、社会的な死、精神的な死等々分析的に捉える必要がいわれている。エレミヤはその一例だろう。  定年退職も、ある種の社会的な死かも知れない。教会はこういう方々にも開かれた存在であり、活用してもらいたい。  近年は、自己肯定感の希薄な青年が多く、就業が継続できない一因とも思われる。実力不足を努力で補う以前に、限界と考えてしまう。指導力不足を反省するが、無力感もおぼえる。神さまに与えられた生命を大切にする、と伝えていきたい。

7月14日「すべての人に対する教会の働き」

 ユダヤ教は元来民俗宗教だった。これが普遍宗教となった。ここでいう「すべての人」とは、異民族(ユダヤ教から見て)が救いに至ることを記念する日である。日本人である私たちからすると、自分たちも救いに入れてもらった想起する日ということになる。ほとんど意識してこなかったために、違和感を憶えるが重要な出来事である。  旧約聖書は、ルツ記が選ばれている。モアブの女ルツは、イスラエルの神ヤハウエの加護を受け将来的にはダビデの家系の祖となる。しかしこのときはルツの家族への愛が認められている。  福音書の物語では、重い皮膚病の異邦人10名が癒やされる。感謝を伝えに来たのは1名だけだった。  このたとえは考えさせられることが多い。私たちもまた異邦人である。神さまの愛は普遍性を持つから、実は全人類が救いに入れられている。私たちには、この一人のように神の愛を知り、感じ、感謝の礼拝を献げている自覚がある。改めていうが、先ほどの残りの9名は特にペナルティはない。私たちもまた、ひたすら自ら感謝の礼拝を献げるのみで、そうではない人たちのことは、気づいてくれるのを願い続けるだけである。何らの感情も不要と思われる。感謝の念を持ってすごしたい。 

7月7日説教「個人に対する教会の働き」

 迷い出た1匹の羊を探すために99匹を野原において出かける羊飼いのたとえである。このお話しは「弱者保護」という概念で、社会一般に理解されている。  ところが、現実的なに運用を考えると、残された99匹はどうなるのかという問いが浮かび上がってくる。神学部の学生には思考実験として良い課題だろう。但し、残された99匹の安全は確保されているものとする。羊飼いの留守中にオオカミに襲われることはない。さて、具体的菜問題を考えてみる。1匹を探すために放置された99匹がどのように判断をするのだろうか。  その答えは、99匹の受けとめ方による。最悪の場合は自分の権利が阻害されたというクレームに結びつくだろう。もっともである。  実際に、幼稚園で発達の遅れた子どもを引き受ける時は悩まされる。先生のエネルギーがそこに偏ってしまうからだ。それでも教室の運営次第で、遅れた子どもの幸せを子どもたち全体の幸せに結びつけることができる。自分たちも赦される(みんなの協力の下で)のだからとても安心し、他者に対して優しくなれるのだ。これはキリスト教保育の長所である。  もっとも現実の社会ともなると、理想道理には行かないかも知れない。それでもこの世界が神さまの愛に満ちあふれていると伝え信じることで、少しでも良い社会に近づけたいと願う。